第48期 #5
彼は走っていた。
見慣れた町並みの中を、ただ無心に進んでいく。
東の海から8月の太陽が昇る。
彼は爽やかな朝露の匂いの中を走っていく。
誰かが彼に話しかける。
目の前を野良猫が横切る。
背後で妻に殴られた男が呻き声をあげる。
近くで電柱にバイクが衝突する。
そんなことは彼は気にしない。
公園を突っ切り、畑を跳び越し、気がつけば知らない道にいた。
けれど彼は止まらない。
風の呼ぶほうへ、ひたすら真っ直ぐ走り続けた。
蝉の声が響く。
気温が上がる。
彼はまだ走っていた。
真上には太陽が浮かんでいて、彼に蒸し暑い光を当てている。
焼けるアスファルトの上を、揺れる空気の中を、いつまでも彼は走る。
ビルの作る影の間を、都会の人間たちの僅かな隙間をすり抜けるように通り過ぎていく。
すでに彼の瞳には何も映っていない。
太陽が西に傾きつつあることも、彼は知らない。
主婦たちがその日の夕食を作り始める頃、
電車が部活帰りの学生たちでいっぱいになる頃、
彼は終わりの見えない一本道を走っていた。
雲が燃える。
茜色に染まった空が、少しずつ怪しげな紫に変色していく。
彼は疲れきって倒れこんだ。
広大な草原の真ん中、周りに人家はない。
彼が通ってきた道の向こうに、小さく街灯の明かりが見える。
風が、彼の熱を奪っていく。
・・・追いつけなかったか。
彼の呟きが、夜空に虚しく消えていった。
満天の星空の下で、彼は瞳を閉じた。
彼は、明日もまた風を追って走る。