第47期 #22

擁卵

 眠っている間に卵を産みつけられたらしい。朝起きたら左頬に違和感があった。鏡に顔を映してみると、いつものさえないあばた面が気の抜けた目で僕を迎えた。肌の弱い僕のにきびは凶暴な赤い斑点を薄い皮膚の下から顔中に浮き立たせていて、青春の情熱とかいう無駄なエネルギーが行き場をなくして全部そこから吹き出たようだ。卵はそんなにきびに埋もれるように、赤い斑点の一つとなってつつましく左頬にあった。気づいたら妙に痒くなってきて、僕は午前の授業中ずっと掻いていた。
 昼休みに呼び出されて人気のない美術室に行くと、カワグチハナエが机に長い脚をもたせて待っている。長い黒髪に飾られた白い夏服がまぶしかった。TVで見るような美少女で、天気によって民放の写りが悪くなるこんな村にいる子じゃないと思う。左頬を掻きながら立っているとカワグチハナエは君の気持ちは嬉しいけど、と困った顔で手紙を返してきた。僕は笑って頷いたけどカワグチハナエは笑っていなかった。
 廊下で待っていた見覚えのある女達が僕をちらちら見ながら、ニキビクリーム塗れよとかエステで顔替えて貰えとか言ったかと思うとすぐ今日さーピアタウン行こうよとはしゃいでいる。ピアタウンは村にたった一つのショッピングモールだがここから自転車で三十分はかかる。ひらひらと遠ざかるミニスカートを見て、お前らのなまっちろい大根なぞ誰が見るかせいぜい田んぼの蛙が覗くくらいがセキノヤマだなんて毒づいてみる。
 学校が終わって、村外れまで続くあぜ道を自転車で走った。左頬が痒くて仕方なかったが全力でペダルをこいだ。山すそにあるいびつな三角形をした水田の脇で自転車を降り、ワイシャツの袖で汗を拭うと、僕は曇った夕空に大声で歌った。彼女の好きな流行の昭和歌謡っぽいポップスだ。姿を見せないままの蛙が鳴きやんで青い稲のすき間から僕の歌を聞いていた。二番のAメロで歌詞を忘れた。僕は大きく息をついて、やっぱりカワグチハナエはかわいいな、と思った。
 翌日痒みが治まってから僕は卵のことをすっかり忘れていたが、一週間くらいたった頃どうやら無事に生まれたらしい。透明な四枚翅をつけた人間に似た小さな生き物が、窓をすり抜けて雨間の月に飛んでいったのを見た気がする。でもそれは夢だったのかもしれない。
 卵のあった場所には小さな穴が開いていたけれど、夏になる前に新しいにきびに取って代わられ、跡形もなくなった。



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