第46期 #25

うんこの話

 一週間の外出を終え、トイレットのドアを開けると、便器のたまり水のなかに、巨大なうんこが鎮座していた。
 まるでモスラの幼虫のようなそのあまりの迫力に、目をしばたかせて、しばし見入ってしまったが、それはやはりモスラの幼虫なのではなくて、吸水口を完全に塞ぎ水面から半ば突き出るほど巨大であることを除けば、色艶といいうんこ以外の何物でもなかった。水を流そうという考えも思い浮かばず、いや仮に流したところで、すでに吸水口を塞いでしまっているのだから、溢れ出てしまうのがオチで、咄嗟に思ったこといえば、これは俺のうんこではない、ということだった。
 普段は「ぼく」という一人称しか使わぬから「俺」などという言葉が出てきたのは妙な話で、いや、そんなことはともかくとして、家人など居らぬ一人暮らしの身で、確信を持って自分のうんこではないと云えるのは、常日頃から腹のゆるいほうであり、日に三度以上必ず排便するためこうまで多量なうんこを腸内に溜めておくことがなく、しかも多分に下痢便気味で、そうでない時もぶちぶちとした細切れの、鹿の糞のごとくであり、長々ととぐろを巻くということがなく、こうも巨大な、いかにもうんこ然とした、うんこ以外の何物でもないような、立派なうんこは四半世紀を越える人生のなかで、ついぞひり出せた記憶がない。さらに云うならば、排便と同時に排尿もするのが常のことで、おそらくは悪癖というべきことなのだろうが、少しひり出してはけつを拭き、またひり出してはけつを拭くのが習慣になっているので、ぼくがし終えたあとの便器のなかは、うす黄色く染まったたまり水のなかに、下痢便うんこを吹いたトイレットペーパーが、ところどころにその白さを無残に残し、浮んでいるという実に惨憺たる有様になっていて、つまるところ、自分の排便では、こうも純粋にうんこだけが白磁の便器のなか鎮座するということはありえないことなのだ。

 もう一度目をぱちくりとさせてみるが、勿論モスラの幼虫でない確固たるうんこであるそれが、もぞもぞと動き出すということはなく、忘れかけていた便意に身震いするのだが、このうんこであることを主張して止まない純粋なまでにうんこであるそれの上に、自分のちんけな下痢便うんこをひり出すことが憚られるように思え、ひくつく肛門をぎゅっと締上げると、いつの間にか浮かべていた脂汗が、ぴしゃんとうんこの上に垂れ落ちるのだった。



Copyright © 2006 曠野反次郎 / 編集: 短編