第46期 #20

猫転がったり、寝ころがったり


「ねこがね、ころんだんだよ」

これおもしろくないかい? そうかつまらないか。でも、ほんとにつまらないかい? もしあなたがお酒を飲める人だったら、いつかどこかでこの文句を思い出してみてほしいな。あのネ、猫がなんとかって文章があってネ、なんて横の誰かとぐびぐび飲んでいるときにぴったりだと思うんだけどどうかな。もう一度、言おう。

「ねこが、ねころんだんだよ」

どう? さっきと同じなんだけど、少しちがうだろ? 転んだ猫と寝ころがった猫。だから何? なんて聞かないでくれよ。実はね、この文句は俺がつくったんじゃないんだ。それについて話をしてもいいかい?

雨の降る夜だったよ、むしむししててね、女がやってきたんだ。俺、飲み屋で働いててね。カウンターの隅に座った。太ってたな。椅子に座るのも苦しそうだったよ。

「ライムワラ」

ライムワラ。なんのことかわかるかい? どうやら英語の発音らしいんだ。ライムウォーターって意味で、もしかしてジントニックのことかな、と思ったんだけど彼女は本当にただのライム入りの水をたのんだんだ。もちろん作ったさ。客だもん。

ライムワラをちびりちびり飲みながら、彼女は文庫本を読み始めた。表紙はなかったよ。でも村上春樹って書いてあるのは見えた。俺も彼の本好きだし、客商売だし、もし彼女が本を横においたらその本のことで何か話ができればなあと思ってたんだ。ライムワラも気になるしさ。でも彼女はずっと本に夢中で、俺は目の前でグラス拭いてたよ。バカラ、ぴっかぴかさ。

とうとう店を閉める時間になって声をかけたんだ。そしたら、彼女、本を置いて俺をじいっと見つめて、あ、どうかしました? と言わずにいられなかった。なんだ、俺に何かついてるのか、とも思ったよ。

「ねこがねころんだのよ」

は? 猫が? 寝込む? 俺は唖然として固まったよ。彼女は一万円札をカウンターに置いてちょぼちょぼと階段を下りていく。はっきり言えば美人じゃなかったし、俺の2倍くらい横長だった。そしてわけがわからないことを呟いた。変な女だった。

ご拝聴ありがとう。その後? 彼女は一回も来ずさ。俺も仕事を変わったし、かわいい奥さんだって貰ったんだぜ。ねこが、なんて言わない常識的な、ね。なあ、「もしも」について考えることあるかい?

俺はあるよ。猫が転んだり寝転んだりに意味なんてなかったかもしれない。でも、あったかもしれない。ときどき俺、考えちまうのさ。



Copyright © 2006 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編