第46期 #19

『blue uprising』

 トムとジェリーの物語からあの穴だらけに欠けたチーズが切り離せないように、ハツミを思い出す時、いつもはじめに蘇るのはピンぼけした古い一枚の写真だ。そこには、白い壁をバックにしてブルーのビートルが写っている。ほかには樹木も標識も猫も案山子もジミィ・ヘンドリックスさえも写っていない。 壁の白と車体のブルー、そして地面の黒色だけの写真だ。おそろしくずれたピントのせいで、色は本来あるべき境界を失い、切り取られてしまった空の欠片、という印象を僕に与えた。
 ―昔父が乗っていた車なの―
 そう言ってハツミは見えないハンドルを切った。ステアリングリミットを存分に無視したそのイメージに、僕は机に腰掛けたまま、あっけにとられて僕らの他に誰もいない教室を見渡した。夕暮れ時の罪も無い通行人や、哀れな野良犬、埃にまみれたカーネル・サンダースがつぎつぎに跳ね飛ばされていく姿が眼に浮かんでは消えていった。
 まわりの恋人たちが親たちの目を盗んで箱根だか熱海だかにせっせと旅行へ行ったり、校舎の裏で唇をかさねあうのと同じ理由で、あの頃僕らは、手に届くものすべてにブルーをくわえた。
 緑に映えるボンバックスの鉢をベビーブルーに塗り、履きつぶしたコンバースをネイビーブルーに、グラウンドの錆びたバスケットゴールをミッドナイトに染めた。くたくたになって作業を終えると、僕らはよく冷えたペプシを手に、できあがった風景をいつまでも眺めた。笑ったり怒ったり、時々には泣いたりもしながら。
 僕らのブルー蜂起はその後、町に設置されたバスストップのベンチを正確に十八脚ぶん青く塗りかえたところで終焉を迎えた。澄んだ冬の星空の下ハツミは、空になったラッカー缶を冷たい地面に置いた。僕が持つペンライトの光が神秘的に彼女を包んでいた。「さよならの向こう側」は聴こえて来なかったが、それは僕にとって忘れられない風景となった。
僕とハツミは恋人同士という関係ではなかったけれど、往く年月を経ても、あの十八歳という季節を巡った恋の想い出は、昇華も消滅もせずに僕の胸にある。僕は二十三歳で中古のビートルを買った。青く暮れる街並みを走れば、今でも時々ハツミのことを思い出す。そんな時僕は、古い愛の歌をくちずさみながら、静かにステアリングを意識する。



Copyright © 2006 安倍基宏 / 編集: 短編