第46期 #12

リンゴを選ぶとき

 リンゴという果実は、キリスト教において、非常に重要なアイテムらしい。いや、非常に、というのは私の思い違いかもしれない。だが、神学など学んでいなくても、イブが蛇に騙されて食べた「知恵の実」は、どうやらリンゴらしい、という物語を読めば、最も重要な果実だと憶測しても、あながち無茶ではないだろう。
 私はリンゴが好きだった。今でも、リンゴを見ると自分の執着を思い出させられる。何かを好きだったということを思い出させられるのは、人間であったことを思い出させられるに等しい。
「どっちがいい?」
 あのとき、母は私を試したのだろうか。
「おかあさんが、さきにとって」
 半分に切られたリンゴの、やや大きいほうを見ながらも、私はそう言った。
 私は母が好きだった。
 崇拝していたと言っていい。
「欲しいほうを取っていいのよ」
 そう言われても、私はまだ迷った。十歳に満たない子供の想像力で、それでも必死に思考を巡らせた。
 大好きなリンゴ。たくさん食べたい。だが、大きいほうを取れば、母は自分勝手だと責めるだろうか。こんなことで母の機嫌を損ねたくはない。
 母をちらっと見ると、みかんを剥き始めていた。母はリンゴより、みかんが好きなのかもしれない。訊いてみたいと思ったが、いじきたない気持ちが母にわかってしまうと思うと訊けなかった。
「早く選びなさい」
 母が少し不機嫌になった。
 相変わらず、母はリンゴを見ていない。この程度の大きさの差など、気付いていないかもしれない。
 私は名案を思いついた。
 小さい方を剥いて、母にあげてしまえばいい。
 真っ直ぐに手を伸ばし、迷わず小さいリンゴを取る。
「お前は本当に遠慮深いね」
 母の言葉に、私は凍りついた。
 母がリンゴを好きかどうかなどということは、まったく問題ではなかったのだと気付いたときには遅かった。私の手には、小さい方のリンゴが握られている。
 それは母を裏切った証。
 恐る恐る見た母の顔は、優しく満足そうな笑顔だった。
「両方とも、半分にしましょうね。そうしたら、同じ大きさになるわ」
 母は私を疑っていない。
 そのことが、ますます私の罪を深めた。
 果物ナイフが、リンゴを切り、皮を剥いてゆく。

 知恵の実。
 豊かな楽園においてさえ、特別な果実。
 楽園を追われることになろうとも、欲してしまった。
 神に背いた、人類最初の罪。

 そのときのリンゴの味を、私は、どうしても思い出せない。



Copyright © 2006 わたなべ かおる / 編集: 短編