第45期 #3

野花に寄す

 植物に興味が持てるようになったのは最近の事である。
 以前は草花を好む感性と言うものはどうも大人し過ぎて自分には合わないと思っていたが、胡乱な風景の中から目当ての草花を見つけ出して愛でると言うのは非常に能動的な美感だと今は思う。都会に育った人間と、ブナとナラを見分けられる田園の人間が同時に森に入ったとして、見える風景はまるで違うと書いたのはソシュールだったか。哲学に傾倒していたのは昔の事なので良く思い出せないが、兎角植物の名前を覚えてそれを探していくのは、世界を切り分けているような面白みがある。
 そういう私であるから薔薇やダリアと言った派手な作りの花よりも、気を留めなければ風景に没して仕舞いそうな小さな花が好きだ。本命はカンパニュラだが、福寿草等も面白い。菊は花よりも葉が好きで、霜が降りた様にくすんだ色合いの白妙菊は特に――おや、こんな所に水仙の花が咲いている、危うく踏み潰す所だった。思案にばかり耽っていると外界の把握が疎かになる事もある。まこと植物の観察とは教訓に満ちている。さて気を取り直して歩き出す。些か気取った歩調で線路沿いの道を行く。フェンスに沿って菜の花の列が並ぶ。陽光を受けて明るく匂うそれらは、漣のような風から接吻を受ける度、空気に仄かな香りを与え、歩き続ける、沢山の黄色い花の群れ、時折その中に別の色が混じり、増えていく花の数、増えていく色彩、世界から零れ落ちるように。あたしは花の事とか良く知らないから、それらの名前なんか判らないけど。
 歩き続け、辺りを見回す。自転車を呑んだ花、アスファルトを破る草、塀を越えて枝垂れる木々は鮮やかな白を散らして。人っ子一人いやしない、等間隔に地面に突き刺さった電柱は人類の墓標だ。ゴミ捨て場に放置された時計の上を、気紛れな時間が通り過ぎてく。

 やがて線路沿いに歩き続けたあたしは、星の降る廃駅へと辿り付く。この先の風景は花々の中に沈んでいて、このホームだけが世界で最後の浮島みたい。いきなりの呼び声、向かいのホームに目をやれば、綺麗な身なりの初老の男が立っていた。気づかなかったけど、今まで向かいの道をずっと一緒に歩いてきたのだろうか。
 その人は気取った風に肩を竦めて、一言。

「――いや、ひっそり咲いているのが好きだったのだが」

 星空を渡る風が不意に歩みを止め、二人の間に花弁の雨を降らせる。
 あたしはどう答えればいいか判らない。



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