第45期 #15

菜の花摘んで

 いつのことだったか、しつこく馴れ初めを聞くので「幼馴染だ」と答えたら鼻で嗤いやがった息子が今日、家族ぐるみの付き合いをしていた隣の娘を挨拶につれて来た。少し憮然とした息子の表情に、俺は笑いをこらえるのに必死だったが、いつも息子の後ろを歩いていた涙顔の幼な子が、穏やかさと芯の強さを笑顔の奥に感じる、どことなく妻に似た娘に成長していたのは素直に嬉しかった。ままならぬもまた人生の味。そのうち息子もわかるだろう。
 二人の去った居間はどこかよそよそしく、気分を換えて街歩きでもしようと、つっかけを履いて河川敷へ足を向けてみた。
 すっかり色づいた新緑が、長く延びた午後の日を浴びてゆるやかにそよいでいる。思ったより強い日差しに汗がにじむ。そう言えば退職するまで近所の散歩などしたことがなかった。
 一歩後ろを黙ってついて来ていた妻の依子が、ふと俺の手を握った。年甲斐のない、と思ったが振り払うのも大人気ない。
「昔よくこうして手を繋いで歩きましたわね」
「嘘つけ。そんなのしたことないぞ」
 俺は思わず依子の手を振り払った。
 高卒で地元の会社に入り、脇目も振らず働いてきた。アンポだのヒッピーだのと騒がしいのは遠い都会の話で、ジユウレンアイの意味を知ったのも地方新聞の社説だった。
「あなたが初めて私に気持ちを打ち明けてくれたのは確か…」
「おい、話を作るなよ」
 同じ野山に遊んだ仲でも、結婚話は親戚筋の見合いでまとまったのだ。甘酸っぱい恋の思い出などあるわけがない。
 家にいる時間が長くなって以来、虚実混淆したこんな思い出話を依子に聞かされるようになった。仕事人間だった俺への不満かとはじめ訝しんだが、曇りのない笑顔は心底そう信じているらしい。よくわからないが仕方ない。思いながらも時折質してみるが、依子はいつもふふ、と笑って「私は覚えていますよ」という。
 土手を登ると急に景色が開け、細雲のたなびく淡い空の下、川岸を菜の花の黄色が埋め尽くしていた。何十年ぶりだろうか。田畑は小奇麗な住宅に変わっても、ここは全く変わらない。
 依子は鮮やかな黄の一房を手折って俺にさし出した。
「あなたがここで、こうして花をくださったのよ」
 俺は思い出していた。依子はいつもこんな風に、俺が置き忘れた小さなかけらを、拾いながらついて来てくれたのだ。
「私は覚えていますよ」
 俺の手を握って依子は笑う。あの日から少しも変わらない笑顔だった。



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