第44期 #21

波紋

ドラキュラは血を好むらしいが、本当にこんなものが旨いのだろうか? 甘木は舌の血を呑みこみながら吸血鬼の味覚を疑った。(ポイントは前歯にベロをあてたまま話すことです)と先生は言っている。もう何百回もきいた。(じゃあ甘木さん、やってみて。はい、猫の人形。設定は、そうねぇ、名前はにゃん太郎で。おなかがすいてご飯が食べたい。お願いしまーす)甘木はにゃん太郎ときいてびくっとした。

舞台に立ち、猫の人形を抱いて話はじめるその男、三十歳。ニャンニャンと猫なで声で「ボク、おなかすいちゃったっ」と言っている甘木竹男の姿を生徒4名と講師は真剣にみつめている。(甘木さーん、いいわよ。うまいじゃない。もう大丈夫よ、あなた。今までベロいっぱい噛んできたもんね。奥さんも驚くわよ)

甘木の妻である須恵子が(こどもがほしい、ほしいったらほしいの)と泣き出した日から半年たっていた。須恵子の身体に子供ができないことは須恵子が痛いほど知っている。甘木は悩んだ。養子はどうだと提案したが(あなたのこどもがほしいの)といってきかない。甘木は泣き寝入った須恵子の顔を眺めていたが、不意に兎のぬいぐるみのことを思い出した。二人とも学生だったころ、まだ結婚や夫婦生活が水平線の先の先にあったころに、須恵子はぬいぐるみを買ってきて(これあたしたちのこどもよ、なまえはあなたがつけるのよ)と言ったのだった。甘木がその兎ににゃん太郎とつけると須恵子は喜び、デートに持っていったりしたが、甘木がどこかで落としてしまった。それからずっと須恵子と連絡がとれなくなって、二人は一度別れることになる。数年後、街で再会したことがきっかけでよりを戻して今に至る二人だったが、ぬいぐるみのことは二人とも話題にしたことはなかった。

それから半年間、甘木は腹話術を習ってついに合格を言われた今日、駆け足でデパートに行き、あの兎、ミッフィーを求めた。昔二人がもっていたより数段大きい一番大きいのを(そのままで。包装はいらないから、そのままで)と言って、抱いて持ち帰った。

ベルを鳴らし、甘木は初夜以上に心臓が高鳴っている自分を押し殺し、まだ血のにじむ舌を前歯の前にあてて呼吸を整えた。ボク、ニャンタロウ! イママデタビニデテタゴメンネ、シンパイシタ? ユウシテクレル?

ところが誰もでてこない。鍵を回して入るとテーブルに「ごめんなさい、さようなら」と書置きがあるのみだった。



Copyright © 2006 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編