第44期 #17
大きな蚊が飛んでいた。きっと半分あいた教室の前のドアから入って来たに違いない。蚊は教室の中を飛び回り始め僕は見失いながらそれを目で追った。
蚊に気付いているのは僕だけだった。皆一心不乱に問題集をやっていたしぼんやり外を眺めているようなのは僕しかいなかったからだ。教師はというと教卓で熱心にネイルを塗っていた。蚊は僕の近くに飛んできて隣の及川君の首に止まった。及川君は気付いていない。
及川君にはこの学校に入学して初めて会った。皆の彼への第一印象はその不潔感だった。彼は必要以上に太っていて不自然に皮膚が白くていつもフケを飛ばしていた。花粉症だったのか鼻水がたれるたびに新しい制服の袖で拭いた。彼の鼻水は大量だったので制服はウェットティッシュの様に湿って粘液のにおいがした。それからその粘液の臭いは彼の周りにいつもまとわり付いた。
外見的な短所に反し、彼は最初皆に一目置かれた。
この進学校では偏差値が物を言う。たとえ外見がどうであれ成績さえ良ければその生徒は周りから重んじられるのだ。及川君の成績がすごく良かったといいたいわけではない。ただその極端な風采でこの進学校に入って来たのならばもしかして、とみんなが勘違いしたというだけのことだった。実際彼の成績は外見と同様ぱっとしなかった。結局誤解が解けても皆は及川君に距離をとった。距離をとっただけだったといった方が正確だろう。
皆及川君に生理的嫌悪感を持っている。僕も持っている。
首に止まった蚊を僕は黙って観察していた。やはり普通の蚊よりも一回り大きいようだ。よく見ると腹に何か黄色い模様があるようにも見えた。及川君がペンを持っていないほうの手で蚊を払った。蚊がこちらに飛んできて見えなくなり耳の周りで羽音が近づいたり遠ざかったりした。蚊は今度は僕に標的を変えたようだった。及川君に止まった蚊に血を吸われるなんてぞっとする。
僕は席を立って半分開いたドアからそのまま出て行った。振り返って教室を見た。誰にも気付かれなかったことで僕は突然陽気な気分になった。
ふと気付くとあの蚊が右手の甲に止まっていて左手で蚊を叩こうとすると、逃れて教室の中に飛んでいって見失ってしまった。
僕は冷気のもれるドアを閉め手洗い場に向かった。さっきの蚊が今朝ニュースで聞いた東南アジアから北上してきた伝染病を媒介する蚊と似ていたような気がしたので、僕は鏡に向かって「まさか」と独り言を言う。