第44期 #16

花霞

 曇り空だった。朝、傘を持たずに家を出た。一日中灰色の空は夕方になっても一滴の雨も落とさなかった。傘を持たなかったのは自分の判断が正しかったという思いにかられたが、胴体から切り離された蜥蜴のしっぽがうねりながら巨大化している空を見上げると、自分の判断というものさえ何か作りごとのように思えた。夕暮れになっても雨粒ひとつ降らない灰色の空は、朝から何一つ変わっていない。灰色は証明の色彩なのかもしれない。
 時計の針がかろうじて時の経過を守ってはいるが、今日という一日などどこにもなかったのではないか、と男は思った。私の一日など、動かない灰色の空に吸い込まれてしまえばそれでおしまい。そのほうが、自分の判断というものよりも現実味があるような気がした。

 次第に暮れていく道の端を歩いていると、後ろで傘をさす音が聞こえた。いよいよ雨が降り出したのかと思ったが、空はまだ蜥蜴のしっぽで、動いている気配さえない。足元でアスファルトがどんよりと地面に埋まっていく。ウォータークラウンが、沈みゆくアスファルトの表面をはじきだしたように見えたのは、男のまばたきのせいだった。立ち止まった男の背後で、靴音が止った。
「花はいりませんか」
 振り返ると傘の下に、白やピンクの花が束ねられてあった。
「あいにくだが、間にあっている」
 顔を隠すくらいの大きな花束ではない。外側に束ねられた白いかすみ草が相手の顔をぼんやりと滲ませていた。そうですか、と花はかすかに揺れ、男の視界にまばらに散った。記念日、ということを思った。男の誕生日、妻との結婚記念日、娘の卒業式。しかし、どれも目の前の花束にかすんで見えた。

 マンションに帰り着き、ドアを閉めるとき、振り向きがちに花束を探した。建物に面した路上で、花束が勢いよく虚空に投げられるところだった。上昇する花束の途中で男はドアを閉め、ただいまと声に出して言った。返事をするものはなかった。閉められたままのカーテンを開けて、ベランダに出てみる。強い風に桜の花びらが舞っていた。自分が何か大事な記念日のことを忘れてしまっている、と男は思った。もしそうだとしても、花は束ねられ、街のどこかで運ばれているのだろう。
 いつ咲いたのかもわからない。川岸へと続く道は、満開の桜だった。



Copyright © 2006 真央りりこ / 編集: 短編