第44期 #15
「お腹痛い」と由紀が言った。それで、母は幼稚園を休ませた。
ひどく寒い日だったので、日差しが出て、少し暖かくなるのを待ってから、母親は街中の診療所へ由紀を連れて行った。
防寒着で丸々となった由紀は、自転車の後ろに乗せられ、晴れた空の下、冷たい風の中を、母親と一緒に疾走して行った。
診療所は混んでいた。暖かい待合室にはたくさんのお年寄りがいて、何事か熱心に話し込んでいた。由紀は老婆たちの注目を集めたが、咳をしている人もいたので、母親はひざの上に由紀を乗せて、放さなかった。
診察室に呼び込まれた。やはりたくさんの人が、壁際に並べられた長いすに掛けて順番を待っていた。医師たちと順番まちの患者たちの間には、白いカーテンがあったが、ほとんど閉じられることはなかった。
順番が回ってきて、母親は由紀を医師の前に連れて行き、由紀を抱いて回転椅子に座った。
「どうしたかな?」と男性の医師は禿げ頭を傾げて、由紀に聞いた。
母親が代わりに答えた。「お腹痛いんだそうです」
「そうですか」医師は言って、由紀にあーんをさせて舌を出させた。それから母は医者の指示どおり、そばのベッドに由紀を仰向けに寝かせ、看護婦と二人で由紀のお腹を露出させた。医師がベッドの横に立ち、由紀の下腹部に触れて軽く押した。すると、由紀は大声で叫んだ。
「あんた、何すんのよ!」
医師も看護婦も「グッ」と言うような変な声を出した。診察室のささやきがぴたりと止まった。そして、一瞬置いて、人々はどっと笑い出した。それは、診療所を揺り動かすほどの笑い声で、医師は上半身をベッドにうつ伏してしまったし、看護婦は大口を開けて笑っていた。母親はしゃがみこんでしまって、苦しそうにしていた。順番待ちの人々は椅子の上で笑い転げていた。
由紀は不思議そうにあたりを見回した。母親が苦しそうなのを見て心配になった。
その日の夕食の食卓で、母親は言った。
「今日、由紀ねえ……」
父親も姉たちも、爆笑した。由紀はひとりふくれていた。母親はふくれた由紀を、口許に微笑を含んで見た。そして、ふと思った。
「この子、もしかしたら……」
憶測が怯えに転化して、母の心をよぎった。