第44期 #11

何もない舞台

 明かりが点くと、何もない舞台に、向かって右手から、暗い色合いの厚手の服を着けた男が、風に飛ばされるのを警戒するように頭にかぶった帽子を右手で強く押さえ、全速力で走って来た後の緩やかな走りといった具合に歩いて来る。舞台中央で自然な感じで足を止めると、大きくゆっくり辺りを見回す。帽子の上の右手はそのままである。覗き込むように体を傾け舞台の端々を睨み、やがて上体を起こすと、男は口を薄っすらと開けたまま、茫然の体で立ち尽くす。帽子の上の右手が、この時ようやく、力がまったく抜けた感じで、体の表面を這うようにして、ゆっくり、ゆっくり、下ろされていく。両手がだらりと床に向かって垂れ、表情も垂れる。男は、足取り重く、しかし、確固たる目標があるような素直さで歩き出す。が、ある地点まで行くと、不自然にバランスを欠き、突然方向を変える。それが四度続き、男の彷徨はパターン化され、やがて綺麗な円運動へ移行する。舞台目一杯に広がる大きな左回りの円である。
 男が舞台中央奥に差しかかった時に、向かって左手から、明るい色合いの薄手の服を着けた女が、火の点いていない煙草を口に咥え、誰かに押されるのでようやく前に進んでいるといった具合に歩いて来る。裸足である。女は、男よりも遅く、舞台の右手の方へ向かって真っ直ぐ歩き続け、右端に到達した時に丁度男の進路を塞ぐ。始め、男が驚いたふうに顔を上げて立ち止まり、その気配を察したふうに女も顔を上げると立ち止まる。だが、互いに顔を合わせようという様子はなく、寧ろ、相手の存在に気がついていないような体である。ここで、長く、長い沈黙。そして、そこに唐突に、舞台左手から右手に向かって、黒い小型犬が全速力で駆け抜けて行き瞬く間に舞台から消える。それが巻き起こしていった風に押されたという具合に女は再び歩き出し、そのまま舞台右手に姿を消す。男はまた、女が現れる以前とまったく同じに、円運動を開始する。
 と、舞台右手から全速力で走って来た先程の女が、舞台中央でくずおれる。女の胸から先程の黒い小型犬が飛び出し、舞台左端に差しかかっていた男の帽子を高い跳躍で奪い取り、そのまま舞台左手に消える。男はその場で立ち止まり、女は声を噛み殺して泣く。ふと聞き覚えのある音を聞いたような気がしてそれの正体を突き止めようというふうに、男は一点の虚空を見つめ、瞬きひとつしないが、明かりはそこで消える。


Copyright © 2006 三浦 / 編集: 短編