第43期 #22
洗い物一つであれこれ言うつもりはないのだけれど、少しは手伝って欲しいと思う。からからにひび割れた指先が悲鳴をあげている気がして、私はぐちぐちと不満を漏らしてしまうのだった。
いつの頃だったか、まだ私が随分若い頃に二十余人分の大小様々な食事皿や箸、スプーン、フォーク、鍋などを洗い尽くした夜があった。大変、そんな一言で片付けられてはたまらないほど大変な量と苦労だった。一心不乱にスポンジに洗い物を押し当て、こすってはお湯ですすぎ、すすいではそれを逆さに向け、丁寧にカゴに収めていく。何度も同じ単純作業を繰り返していると不思議なもので、無の境地なんて格好いいものではないが、次第に顔から何からすうっと血の気が引いていくのがわかった。
至極冷静な私がそこにいる。水と洗剤の境界線や、すすいだ洗い物に反射する蛍光灯の光が、顕微鏡でズームアップしたみたいに瞳に映る。一畳ほどの世界で繰り広げられる流れ作業。ああ、私はこんな地味なことで得難いものを得られたのかな、と思うと奇妙な不平等を感じてしまう。誰も抗うことの出来ない奇妙な世界の不平等。一生費やしたって到達できないイタダキが、確かにそこにはあるのだ。
足元に擦り寄ってくる猫がノドをごろごろ鳴らしている。私は手を止めて、エプロンで拭った湿り気のある掌で猫の頬を撫でた。まじまじと私を見つめてくる猫の顔を見て、この子は受け入れていると思った。禍々しいバケモノのような世界。猫にもあるの、猫だって苦労するの、爪のひとつくらい立てたくなるわよ。
受け入れて、尚且つ敗者の様相を呈している茶と黒の斑な猫。痛々しい目脂。鋭い爪。
今の私はその時の私とは違う。量の違いはあれど、あんなふうに無我夢中に目の前の洗い物に集中できなくなった。向かいの居間では、息子と主人が人気バラエティを見ながら大笑いしている。その様子を背中で感じて、私に覆い被さろうとしている、価値を持たない黒ずんだ紫色のもやもや。あざ笑うオレンジ色の貧弱な換気扇。猫はもういない。
観念してそれを受け入れようと覚悟したが、ふいに気配が消えた。後ろを振り向くとそこに息子が立っている。
「母さん、あとは俺が片付けるからいいよ」
息子が大きな体で不器用に水に触れ、側で硬直する私。
「母さんどうしたの? もういいよ?」
無意識にひび割れた指先をエプロンのポケットにしまった私の顔は、きっと真っ赤だったと思う。