第42期 #28

古鍵と旅する男

 高く昇った日を隠すように雲が沸いて、雨粒が地面を打ち始めた。僕は街の方角を地図で確かめながら、草のまばらな山道を足早に進んだ。
「君ときたらいつも何処か抜けているんだ」
 痩せた半裸を晒した僕の胸元で不機嫌な声を上げているのは、革紐に吊られた小さな鍵だった。
「ここ数日の空模様なら、今日も夕立が来ると予想して然るべきだと思うがね」
 泉で洗った服が荷物を縛った棒の先で灰色に湿ってくる。赤錆の浮いた鍵は汗ばんだ肌の上で嫌そうに揺れながら、飽きることなく不平を鳴らしていた。
 故郷の村を離れて十月は経つ。自分の鍵に合う扉を探すのが村の成人の儀式だった。鍵が言うには完全に一致する扉に出会うのは真に至福の一瞬であり、その時こそ呪いが解け、封印された魂が大空に解放されるのだという。
 街に辿り着いたのは夜中だった。僕は宿のベッドに裸のまま横になる。空腹、そして不安。うすら寒い毛布の中で僕は鍵を握りしめ、今夜も泣いた。
「言いたかないが君の寝涎は何とかならないものかね。臭うやらべたつくやら。もう少し大人になって呉れ給えよ」
 起き抜けから不満たらたらの鍵を無視して僕は仕事にかかる。家々の扉一つひとつに鍵を合わせ確かめるのだ。勿論多くは穴にささりもしないが、何かの拍子にするりと入り、かちんと廻ることがある。これだ、と喜ぶ僕の手元で鍵が一頻り感想を述べる。ところが褒めたためしがない。やれ先っちょが届かないの、やれ締め付けが緩いのと実に煩いのだ。
 鍵の薀蓄は日に日に磨きがかかる。穴の具合から色合いから肌触り、ついには臭いにまで注文をつけた。呆れた僕はとうとう叫んだ。
「いい加減にしろよ。完全に合うなんて無理だ。少しくらい合わなくてもいいじゃないか」
 驚いたことに澄んだ空が胸に飛び込んだようだった。僕は鍵を見つめた。
「それが君の答えかい」
 鍵は穏やかに言った。それが僕の扉だった。手の上で鍵がすうっと重さを失い、霞を纏って膨らんだその姿が、小さく痩せた鳥の姿になった。錆色の斑が浮いた羽を撫でると、指先にわずかな温もりが伝わった。
 その錆も温もりも確かに僕のものだった。
 鍵は僕の掌でひとつ羽ばたいて空へ飛び上がろうとした。だが、鍵の頸に結ばれたままの革紐を僕は引いた。すぐに頭上で、ぐえ、と声がした。
「一緒に村へ帰らないか」
 鍵は照れ臭そうに笑い、僕の頭にとまって啼いた。生まれて初めて聴く綺麗な聲だった。



Copyright © 2006 とむOK / 編集: 短編