第42期 #16
俺はこの町が嫌いだ。小さな石や貝殻ばかりが砂浜に打ち寄せる、この町が嫌いだ。中学を卒業したら家を出る。まだ親には言っていない。
二年前、兄貴が出ていったとき母親が泣いているのを見てしまった。朝早く台所でお米を洗っている時、米のきしみ合う音に混じって細くうなる声が聞こえた。蛇口から勢いよく流れてくる水の音ですぐにかき消されてしまったけど、やっぱり泣いていたんだと思う。
パンの仕込みで朝が早いから、俺の朝食はテーブルに置いてある。
「和樹、おかわりいるかい」
土間続きの工場から、母親の明るい声がする。
「自分でやるからいいよ」
時間があいたときは、一緒に食事をする。が、その日は顔を合わせたくなかった。母親もきっとそう思っていたのだろう。
「そうか、じゃあ頼むね」
と言ったきり、俺が学校へ行くまで姿を現さなかった。家の角を曲がる直前に、走ってくる足音が聞こえた。
「気をつけて行くんだよ」
おうと返事してふり返ると、大きく手を振っている。遠すぎて表情まではわからない。もし母親の目が泣きはらして赤くても、俺にはただ海を泳いでいる赤い小さな魚くらいにしか見えなかっただろう。
兄貴からの手紙はいつもとても簡単なもので、大抵は絵か写真付きの葉書だから、文字を書くところが異様に少ない。
『今パリにいます。天気はいいです。みんな元気ですか』
『今日はチュイルリー公園に来ました。初めて見る凱旋門はでかかった』
とか、そんなところ。調理師になりたくてフランスに行くっていう、志はでかいけど態度もでかい。日本にいたって免許とれるぜ、と言いたいところを我慢してやった。兄貴だってこの町を抜け出したいことにかわりはなかったんだ。内ポケットに忍ばせた葉書を、制服の上からなぞる。
海の外の空気はうまいですか。
彼女はできましたか。
フランスに兄貴の夢はありましたか。
ちくしょう。どこだよフランス。
兄貴、俺は毎日魚とたわむれています。