第41期 #4

 熱海市の中心、熱海駅前で目にするのは、鄙びた商店街と、やたら急な坂道と、静かに歩くお年寄りたちだ。ここは年々人口が減り続けているという。僕は東京から車を転がし熱海駅前を通り過ぎ海岸沿いの国道を進んだ。狭い道路がさらに狭いトンネルによって遮られる。ぱっと視界が開けて左手に青い海が広がった。
 僕はここへある姉妹に会うためにきた。二人は対照的で、三十路間近の姉の美潮はぽっちゃりして小柄、妹の里慈はすらり長身の美人だった。
「日本国憲法の理念は、人類の長い哲学史の美しい結晶であり、現代思想の本流です。何一つ手を加える必要のないものです」
 海岸をそぞろ歩きつつ静かに語る里慈は例えようもなく美しかった。今しがた浜辺に降り立ったアフロディーテのようだった。
「現実と折り合うべきところもあるだろう」
 里慈は立ち止まり、僕を睨みつけた。
「あなたは変わったわね」
 僕もまたこの辺りの生まれで、ここを地盤とする、ある保守系代議士の秘書を勤めている。数年前の与党大勝以来、憲法改正の機運が盛り上がっていた。一方で護憲の根強い動きもあった。里慈はそのような政治活動をしていて、その美貌もあって、地元では注目されていた。もしも彼女が選挙に出馬するようなことになれば、間違いなく僕の主人は苦戦するだろう。この大事な時期に、それはどうしても避けなければならない。
 姉妹の死んだ父は広い屋敷と資産を残していた。里慈には知性と美貌だけでなく、豊富な政治資金もあるわけだ。僕は里慈の留守の間にその家を訪れた。出迎えてくれた美潮は昔と変わらず優しかった。
「東京裁判はまったくの茶番なんだよ。そして今の憲法は占領軍に押し付けられたものだ」
「そう……私、難しいことはわかりません」
 僕は夜になっても帰らず、餅のように白くて丸い美潮を舌先で転がした。美潮は時々苦痛であるかのような声を上げた。
「僕たち、一緒に暮らそう」
「妹に相談してみないと……」
 僕は東京に仕事があり、一週間後に戻るのでそのとき返事をしてくれと頼んだ。
 一週間後、再び姉妹の家を訪れると、美潮はいなかった。
「姉は引越しました。遠いところで司書の求人があって採用されたんです。あなたの話は聞きました。なるほど、この家も財産も、姉の名義ですものねえ。姉は心の優しい人です。それに付け入ろうとしたあなたを許しません」
 僕は黙って立ち去った。――美潮、君を本当に愛していたのに。



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