第41期 #30

ユグドラシルの錠

 手遅れだ…。
 ノルンは下唇を噛み、薄い眉を顰めた。
 三姉妹の目を盗み、森の奥深くに忍びこんだ銀髪の幼い神は、目の前にある純銀の錠を見つめ、ため息を漏らした。
 それは世界樹ユグドラシルにかけられた錠で、かつて主神オーディンが創り出した錠。
 錠は世界樹にめりこみ、錆びた表面だけが見える。
 ノルンは目を閉じ、なにか方法がないか現在、過去、未来の記憶を手繰りはじめた…。
 そもそも世界樹ユグドラシルは、神界、地上界、冥界を支えるために植えられたトネリコの樹だった。小指ほどの苗だった樹は、三界を支え安定を希望する神々の祈りを生命に変換し、生長し続けた。わずか七日で神界、地上界、冥界に枝葉を伸ばし、世界はしっかりと絡みつき、望みどおりの安定が訪れた。
 しかし、ユグドラシルの生長はとまらなかった。
 神々は更なる安定を祈り、ユグドラシルは祈りを貪った。幹はますます育ち、根は山脈のように脈々と大地にうねり始めた。2200世紀経ったときには、支えであったはずのユグドラシルが世界を圧迫し始めた。枝葉は空の半分を塞ぎ、幹は世界のどこにいようと見ることができた。
 神々は世界の崩壊をおそれ、祈ることをやめたが、ユグドラシルは生長し続けた。もはや、誰にも止めることはできなかった。
 唯一、主神オーディンをのぞいては。
 オーディンは、持てる叡智の限りをつくし、純銀の錠と鍵を創り出した。オーディンはその錠をユグドラシルの幹に埋めこみ、鍵をかけ、時間の流れからユグドラシルを締め出した。生長を阻まれたユグドラシルは枝を振り、洞窟のような“うろ”から、断末魔をあげ、オーディンを呪った。
 オーディンはユグドラシルをおそれ、封印が解けることのないよう鍵を呑みこみ、ユグドラシルの根に三姉妹を住ませ、監視するよう命じた。
 それから、4400世紀…。
 ノルンは静かに目を開き、錆びた錠を見た。
 めりこんだ錠の鍵穴から、幹のなかに漂う水が一滴一滴、滴り落ちている。
 その一滴が錠の表面を撫で、少しずつ純銀の錠を錆びつかせ、風化させている。
 ノルンは口元を手で覆い、息がかからないように近づいた。
 錠はすっかり朽ちていた。
 根元の泉に膝まで浸かったノルンは、目の前の一本の樹を睨みつけた。
 樹は、風になびき枝を揺らし、葉ずれの音をさせていた。
 その樹は生きている。
 6600世紀経った今も、神々の目を盗み、生長しようとしている…。



Copyright © 2005 八海宵一 / 編集: 短編