第40期 #34

風の男

 夕日は早々と山並に差し掛かり、冷たい風が吹いていた。帽子を目深にかぶり、買物袋を提げて。家具職人、島は廃工場を独り歩く。投げ出された鉄骨と作りかけの椅子の線を比較している。
「島、明。三十五歳」
 廃材の陰から呼ぶ声があった。逃げ道を探して振り返ると、紅い軍服が音もなく立ち並んでいる。向き直れば夕日より紅く、軍服が列を成す。
「独身。恋人なし。間違いないな」
 廃材の陰から現れたのは将校だった。左胸に心臓を象った金章。恋愛相談室連隊だ。将校は革鞭を突きつけ、問う。
「君は今、好きな人がいるのか」
 騙せなければ殺される。島は自分の緊張感を煽る。女優の名前を口にする。「彼女でないと駄目なんです」もう何年も使い古した手だった。
「軍曹」
 島の左で、大型のカメラを構えた男が敬礼する。島の知らない機材だ。
「アドレナリンの分泌を確認しました」
「続けろ」
 戦争が終わり、復興が終わり、安定期があった。勝利は移ろいやすく、成功は空虚。恋愛だけが確かな価値観として残った。誰もが熱中し、否定できず。恋の名のもとに全てが許され、愛の名で誰もが許される。そして恋さぬ者、恋に応えぬものに生存権はないと紅い軍服はうたう。
 人間は動き回り、気分を変え、汚し、怖し、失敗し、止まらない。完成しない。
 島に愛せたのは家具とその製作だけだった。
「ところで島君。ちょうど、たまたま、偶然、君の言う彼女を連れてきているんだが」
 将校が招くと、廃材の陰から女優が立ち上がる。映画のまま、白いドレスを着けて。
「君の作る椅子が大変気に入ったそうだ」
 うめく間もなく彼女は島の手を取っていた。甘いささやき。嫌悪感をこらえる。近づいてくる赤い唇。死にたくなければキスするしかない。
 噛みつくように奪った。
「ドーパミンの分泌、ありません」
 軍曹の報告。将校は島を蹴り倒した。手早く処刑を命じ、女優の肩を叩く。
「ご協力感謝します」
 彼は殺されるのか。女優はたずねた。「私が心を開かせることができれば」「いえ、あなたの責任ではありません」将校はさりげなく女優の向きを変えさせる。
「言ってみれば、奴は人の形をした風穴です。我々とまともな交渉が出来るように生まれついていないのです。死んだ方が余程幸福な生き物です」
 銃声。女優は目を伏せる。「どうでしょう、夕食をご一緒させていただけませんか」将校の差し出した手を取ると、その瞳は早くも恋の期待に輝いていた。



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