第40期 #33

菌類

 彼とキスをすると髭が擦れた。あらかじめ俺も彼も髭を剃っておけばよかった、なんて考えている間に反応する。
 次の日になると彼はいなくなっていたので、俺は島に行く船に乗った。湖に浮かんでいるそこには猫がたくさんいて、彼は猫が好きだから、写真が何枚もあれば喜ぶかと思って。iPod miniがズンタカとリズムを響かせる間にも、波はくだけて形を失っていく。
 船着場のベンチで、竿を垂らす爺さんを見ながら持参のコンビニ弁当を食らい、島の中を歩き始めた。するとすぐにもお猫様と遭遇できたのでカメラを構える。黒猫の美人は、ま白い太陽の下で、俺から逃げつつもこちらを向いてニヤリと笑った。
 ニヤリ。
人類皆平等≠サう俺に言ったのは母だったか。そんなこと毛ほども感じさせない世の中なのだけれど、全ての人に等しく愛情を与えよという教えはまんざら悪くない。だから彼の「お前のことが一番大事」なんていう台詞は存在ごとなくなるべきじゃないか、そんな考えが頭をかすめたのだ。
 ズンタカ、ズンタカ。音楽に気を取られている内に美人はいなくなり、代わりの三毛猫様が軽やかな足取りで路地を駆けていく。俺もそれを追いかけたかったけれど、ほっかむりの婆さんが端で休憩しているだけでも道は一杯一杯だった。家と家との間で、大きな蜘蛛が陣地を広げている。
 ズンタカ、ズンタカ、ズンズンズン。耳にこだまするリズム。それに乗じて思い出す、昨夜の野菜炒め、流し台の下にある彼のお手製ホウ酸団子。美味しそうな玉ねぎの匂いに惹かれてゴキブリはやってくるわけで、俺もやってきたわけで。
 しばらく歩くと山の手に急な階段があり、そこを登るとこじんまりとした神社があった。境内の説明書きによると、戦いに敗れて漂着した落ち武者たちがこの島の人たちの祖先なのだという。武者の中に女っていたんかなあ、と俺は投げやりに考え、そしてうっすらと笑った。もと来た階段の方へ向き直り、高いところから町を見下ろす。息を大きく吸うと澄んだ空気を肺に感じた。青い空、イヤホンを外すとトンビの声、秋のさわやかで冷たい風、頭に巣食っていた黴がちらほら飛んでいく。
 今日彼は、釣りに行くために朝早くから出かけたのだ。ああ野菜炒めの中のしめじはいい匂いだった、ホウ酸団子なんか目じゃないぐらい。今日の晩御飯は何だろうか、明日の晩御飯は何だろうか。そんなことを考えながらカメラを町に向ける。



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