第40期 #31

全身散霊

橙色に透き通ったアイスティが、白いミルクを抱きながら淡い飴色へと衣替えしていく。恵美がその細い指で黒いストローを静かに差し込み、躊躇いがちにかき混ぜている。ちらと俺の方を見ては、左手をスウェットの前ポケットに入れたまま、すぐ逃げるように視線を窓外へと逸らす。そして健やかに膨らんだ頬を照れたように撫でながら、桃色に咲いた唇で緩やかな弧を描く。

そうなんだぁ……そっかぁ、アタシ真に受けちゃうから、すごい期待してんだよねぇ……え? つまんなそうって言ってたじゃん……主演の人誰だっけ? あの人結構好き……あの人の出てる映画って、大体感動するんだよねぇ……でも今週土曜はバレーの試合あるしなぁ、日曜は塾あるしさぁ……でも来週空いてるかも……でも来週までやってるかなぁ……

先程から、濃厚なコーヒーの臭いが俺の内側を撫でて行く。そのざらついた脂が俺の中で執拗に旋回する。俺の体内は全くそれに満たされるが、返って俺の感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていく。その靄の向こうに揺らぐ、仄かな紅茶と、それを底から押し上げるような濃厚なミルクの香気。その向こう側、柔らかい甘味の中に幾許かの恥じらいの酸味が差し挟まれ、弾み出さんばかりの清涼感を漂わせている。これは紛れも無い、恵美の匂いだ。若々しい、恵美という生き物の醸し出す、躍動する生の匂いだ。

まじまじ、絶対つまんねぇよ、なんかアリキタリって感じでさ、CMでさ「感動しました!」とか言ってんじゃん、ああいうのって信じらんねぇよな……そうなの? 実は俺もちょっと観たいなぁとか思ってたんだよねぇ……最初はさ、そう思ってたけどさ、でもちょっと行ってみてもいいかなぁって……あー誰だっけ、顔わかる……うんうん、泣けるよな、絶対……あ、土日、土日俺もダメ……俺も、俺も来週日曜なら空いてるわ、たまたま……だよねぇ……

やめろ! すべてお前らの下らぬ妄想だ! でなければ、道端の土塊を一握りし、世界を知り得たと逆上せ上がっているだけに過ぎぬ。お前らが見、聞き、嗅ぎ、話すことなどできぬ、お前ら自身の意思で、などと! お前らの供する欠片を綜合し結実させ得る俺こそが、あらゆる美を愛撫し、あらゆる奇跡を飽食することを許された者、唯一恵美に相応しい存在なのだ! お前らの乞い崇める恵美は、俺の小部屋でのみあの愛らしい姿で現出し、お前らの恋焦がれる恵美は、お前たちの裏側にしか微笑みかけぬのだ!



Copyright © 2005 くわず / 編集: 短編