第40期 #28

歌唄いの詩

その街角に行けば彼に会える。時間はきっかり、午前10時から午後7時まで。雨の日も雪の日も、飽きることなく彼はそこに立っている。
 持っている楽器は日によって違う。そこに法則性はなく、彼が歌いたい曲に合わせて用意しているようだ。弦楽器、吹奏楽器、鍵盤楽器、打楽器、どんな物でも上手に演奏する彼を見ると、この世に存在する楽器ならば、全て演奏できるのではないかと錯覚してしまう。あながち、錯覚ではないのかもしれないが―――直接話したことはないから判らない。

 もう3年になるだろうか。この街に越してきてから今日までの間、私はずっと彼の演奏を聴いている。なぜなら、私が臥せっているこの家の真下が、彼の舞台だからだ。私がこの街に来た理由は、腕利きの医者が近くに住んでいるから。幼い頃から病弱だった私を憂いて、両親が探してきた名医らしい。もっとも、そんな医者よりも毎日音楽を聴かせてくれる歌唄いのほうが、よっぽど体に良い気がするんだけど。

 最初のうち、父は歌唄いの音楽が煩かったらしく、何かと文句をつけていた。家の前で歌わせることを止めさせようとしている、と女中から聞いた私は、彼の音楽を大いに気に入ってるのだと父に話し、歌唄いに干渉するのは止めて欲しいと懇願した。父は私を可愛がってるから、それだけで充分だった。それどころか、態度をコロッと変えて、彼を褒めちぎり、あまつさえ金を払って歌唄いを私の部屋に連れて来させようとしたこともあった。まぁ、その話は結局、私がひどく嫌がったせいで無しになったのだけど。

 彼には、あの場所でないと駄目なのだ。なぜだか、私にはそういう考えがあった。だから父に願ったときも「干渉しないで」と言ったのだ。街の喧騒の中、彼だけは独り磁石のように毎日同じ場所に張り付いて演奏している。ベッドの上から動けない私と、彼。どこか似てはいないだろうか。勝手な仲間意識を、私は彼に持っているようだった。

 ああ、時間はもうすぐ午後7時。彼は何処とも知れぬ彼の家に帰って、私はお医者の注射を待つだけ。せめて、あと少しの時間、彼の音楽に浸っていよう。つかの間の幸せとはこういうことを言うのかもしれない、そう思った。



Copyright © 2005 折原 愁 / 編集: 短編