第4期 #9

ぴあの

敗れた男は呆然と立ち尽くしていた。彼の背後から聞こえる入賞者へ向けた歓声は彼には届いていない。真柴からはたくさんの真柴汁が湧き出ていた。支流から本流、本流から支流へ。彼の神経回路は壊れてしまった。

 嫌な予感はしていた。コンクール前日、真柴はピアノの師匠であるジョーンズに質問された。
「アナタはなぜピアノを弾いているのですか?」
唐突な質問にがまん汁が少し飛び出したが、真柴は腹式で立派に答えた。
「そこにピアノがあるからです。」
優等生である真柴らしい会心の返答であった。世界中に花が咲き、白鳥が舞い小鳥が囀り和田勉が黙った。やがて天使が降てきて和田勉を連れ去った。ララバイ、勉。
「アーハー。それがヤマトダマシイですか?」
ジョーンズは「ファッキンジャップくらい分かるよ。馬鹿野郎」と呟くと天を仰ぎ首を振って出て行った。「もう僕が教えることはない。」という言葉と決別を残して。真柴にはジョーンズの言葉の意味がわからなかった。自分の才能に嫉妬しているんじゃないか?夜中に自分のことを淫らに想像して楽しんでいるのではないか?とさえ思った。しかし、コンクールでの真柴のピアノは誰にも届かなかった。ボトルに手紙を入れて海に投げるように、夢いっぱい偽善の環境汚染であった。

「こうなることはあたり前田のボヤッキーです。ドロンジョ様。」
ジョーンズは呆然と立っている真柴に声をかけた。真柴は振り向くことなく震える声を搾り出した。
「どうしてです?」
ジョーンズは自分のちょび髭をさすった。
「いいですか?あなたはピアノというものを勘違いしすぎている。あなたがピアノを弾く動機は不純すぎていた。例えるなら、田島寧子(オリンピック銀メダリスト)の女優宣言だ。純粋と言う名の暴力だ。今あの子を見たら切ないだろう?逆もまた真なり。いいかい?おしるこを美味しくつくるコツはなんだと思う?」
「隠し味に塩をいれるんじゃ?」
「バッキャロゥー。塩なんて全然隠れてない。はみちんだ。ましてや愛なんてもんじゃない。いいかい?おしるこなんて美味しくなくていいんだよ。」
ジョーンズの説法は絶対零度に競り勝った。
「先生!自分にもう一度チャンスを」
ジョーンズは黙って頷いた。
「よし、まずは楽譜を覚えよう。気持ちだけじゃピアノは弾けんからな。」
真柴の背後には天に召された和田勉がにっこりと微笑んでいた。


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