第38期 #11

 季節外れな蚊に気付いたのは、その小さな羽音が耳のすぐ側をかすめたからだ。神経を逆撫でするような不快なその音は、だが、ひどく弱々しい。
 まるで油の海の中を進むようにゆっくりと、ふらふらと進む蚊は仲間とはぐれ、季節と一緒に取り残されてしまったのだろう。まったく、不器用なやつだ。
 その蚊が疲れたように自分の右手の甲にとまるまで、コウタはぽかんとその様子を見つめていた。蚊の呼吸など感じられるはずもないのに、やっと落ち着く場所を得てほっと溜息をついたように感じた。そうして、自分が何者であるのか思い出したように蚊はコウタの皮膚を刺した。痛みと言うのも馬鹿馬鹿しいくらいの刺激に、コウタは、はっと我に返る。反射的に左手を振り上げ、打とうとした。だが、その手は振り上げたままとまってしまう。
 のろのろと動きの遅い蚊は、まだ懸命に血を吸っていた。
 恐らく、もうすぐこの蚊は死ぬ。
 なんとなく、そう思った。だとしたら、わざわざ自分がここでとどめをさすこともないような気がする。仲間からはぐれてふらふらと漂って痩せこけていた身体には、今コウタのあたたかい血が腹一杯に飲込まれているのだろう。せめて、自分が今感じている希有な感覚、その感覚を認識する忍耐力に見合うだけの満足感を感じていればいいと思う。
 ようやく血を吸い終えた蚊は、またふらふらと飛び立っていった。強い西日に反射して、その姿はすぐに見えなくなってしまう。
 ふと気付いたようにパウリーは燃えるような痒みを覚えて、振り上げた不自然な位置のままであった左手で乱暴に右手の甲をかきむしった。赤い引っ掻き傷ができる。
 その時だった。背後で、パチンと大きな音がした。振り返る。そこには、両手を合わせたシンイチの姿。
「刺されたのか? まったく頓馬なやつだな」
 自らの手の中を覗き込んでその小さな虫をしとめたことを確認したシンイチが、コウタを一瞥してそう言った。いつもの、小馬鹿にしたような口調。だが、コウタはいつものようには怒鳴り返さない。
「うるせー」
 静かに、そう呟いて唇を噛み締めた。眩しそうに夕日を睨みつける。それはもう、秋の太陽だ。夏は、終ったのだ。
 馬鹿馬鹿しい。手の甲の腫れはじんわりと広がったまま赤く疼いている。妙な胸中のもやごと吐き出すように、コウタは大きな深呼吸を繰り返した。



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