第37期 #21

バキューム

 蝉もまだ鳴きはじめない早朝の白んだ陽がわずかに差し込む部屋のまんなかで、一人座っていると、いつの間にか蚊が一匹右腕にとまっていた。寂寞とした部屋のいったいどこに潜んでいたのか、その蚊がひどく珍しいように思え、蚊に喰われるあの感触を待ち遠しくさえ感じながら、じっと見ていると、なにか今まで感じたことのない妙に気持ちの良いような感触がして、よくよく目を凝らしてみると、蚊は血を吸うのでなく、卵を産みつけているのだった。血を吸うのはすべて雌の蚊だとどこかで聞いた憶えがあったから、なるほど卵を産むこともあるだろうとは思うのだけれど、自分の腕からうじゃうじゃとボウフラに湧かれてしまっては困ってしまう。などと思っているうちに蚊は音もなく飛び去り、やがて腕の中がだんだんとむず痒くなってきて、左手で掻き毟ってみるも、普通の痒みと違いまるで効果なく、仕方無しに黙ってじっと堪えていると、ぽしゃんと泥を跳ね上げるようにして、皮膚の下から肌色をした豆粒ほどの蛙が出て来た。あっと驚く間もなく、肌色の蛙は次から次へと飛出て来て、手の甲までぴょんぴょん飛び移っていき、ぱくりぱくりと共食いをはじめ、徐々に大きくなっていって、直に手の甲いっぱいの肌色の蟇蛙になった。こちらをじっと睨めつけるので、掴みあげてやろうとすると、掴まえる寸前、ぱくりと人差し指を半ばあたりから奇麗に喰われてしまった。蟇蛙はぷっとばかりに指を吐き出すと、ひょいっと吸い込まれるように指の断面から左腕のなかに入っていき、無数のお玉杓子となって血管のなかを駆け巡っていった。身体中で蛙に鳴かれてしまっては、腕からボウフラに湧かれるより始末に悪い。これは困った。どうしようかと思っているうちに、白血球がお玉杓子に喰らいついていき、お玉杓子との壮絶な喰らい合いがはじまった。
 その勝負の趨勢が決しないうちに、堪え性のない僕の身体はドロドロと崩れていき、べしゃんと床に崩れ落ちたその様子は、まるきりぼっとん便所のなかの糞尿だった。ご丁寧なことに、飛び交う蝿や、放り込まれたトイレットペーパーの芯まであった。糞尿になってしまった自分を嘆く間もなく、床下から物凄いような音がして、ずずっと僕の身体は吸い込まれていき、ボスンという音がすると、すっかりなくなってしまった。身体が奇麗さっぱりなくなってしまったので、ほかにすることがなく、僕は目を閉じることにした。



Copyright © 2005 曠野反次郎 / 編集: 短編