第37期 #18

ブック・バー「デニス」

マット・デニスの歌声が響く店内。数名のテーブル客が本を両手に抱いてくつろいでいる。まだカウンター席には誰もいない。

夜も更けてきたころ、鈴が鳴った。

「マスター、あたし初めてなんだけど」
「いらっしゃいませ」
「ここは本がメインなの?」
「はい。硬めの文学から美味しい物語までなんでもございます」
「そうねえ。でもまずはお酒もらおうかしら」
「かしこまりました」
「コート・ロティ。ある?」
「ございます」
マスターは素早くコルクを抜いた。
「失礼ですが、お客様ブルーベリーのようなほのかに甘い匂いがします。素朴なのに個性的でいい香りです」
「あ、これ? よくわかるわねえ。リヨンに調香師の恋人がいてね、あ、恋人だった人がね」
マスターは鴨居羊子『花束のカーニバル』を差し出した。「お好みかどうかわかりませんが」

鈴が鳴った。

「マスター、久しぶり」
「いらっしゃいませ」
「杉浦日向子さん、亡くなったね」
「はい、惜しい人を亡くしました」
「俺、『入浴の女王』大好きだったんだよな。杉浦さんにちなんだ本、選んでくれよ」
「かしこまりました」

マスターは岡本綺堂『半七捕物帳』とウィスキーをソーダで割ったカクテルをテーブルに運んだ。「お好みかどうかわかりませんが」

鈴が鳴った。

「マスター」
「いらっしゃいませ」
「この前ブック・キープした森有正『遥かなノートルダム』あれ、つまらないよ」
「申しわけございません」
「すらすら読めて短くて笑えるのがいいな」
「それでしたら『オクトパシー』なんていかがでしょう?」
「ま、読んでみるか」

マスターは生ビールとA4用紙に印刷された『オクトパシー』をテーブルに運んだ。「お好みかどうかわかりませんが」

「ねえマスター。鴨居羊子って初めてなんだけどいいね」
「ありがとうございます」
「さっきの人、森有正がわからないなんて野暮よねえ。あたし森有正大好きよ。『遥かなノートルダム』懐かしいな」
「お客様に読みごろの本を選ぶのが私の仕事ですから、あわない本を選んだのは私のミスです。でも森有正、地味だけど個性が光ってますよね、ちょうどコート・ロティのように」
「ところで『オクトパシー』って誰の本? 聞いたことないな」
「実は、私が」
「マスターが?」
「ははは」
「あたしも読みたい」
「インターネットのサイト『短編』で読むことができます」

「おーい、この『オクトパシー』つまらないぞ!」
「申しわけございません、すぐにお取り替えします」


Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編