第37期 #15

祭囃子の遠く

「瑞穂、問三は…ねえ、聞いてるの?」
「もーあづぐって、限界…」
「しっかりしてよ。宿題終わんないと、あかるい明日は来ないのよ」
 突っ伏した後頭部を希美に団扇で叩かれる。希美はウチに泊り込んでもう二晩め。
「明日の花火大会が遊び納めなんだから」
 それで中学三年の夏も終わり。明後日はとうとう始業式だ。
 テーブルの上で希美のケータイがお気に入りの曲を奏でる。桜井からのメールだ。
「桜井たち、宿題一緒にやろうって」
「あいつら、今までそう言って終わらせたためしがないじゃん」
 あたしの頭の中で、桜井その他の、子どもの頃から変わらないお気楽なワルガキ笑顔が並んだ。そのひとつが突然大きくなる。今年急に背が伸びて、でも仔犬のような黒目だけが昔のままの男の子。あたしはそれを無理矢理追い払う。
 宵闇の窓の向こうで、曲が炭坑節に変わっていた。ダサいって思うけど、毎年聞いてると懐かしく耳に馴染むのが不思議。
「調子どう?」
 ドアを開けた母が麦茶の盆を運んでくる。出したばかりの浴衣を着て、袂から樟脳がふわりと匂った。
「ずるいお母さん、自分ばっかり」
「あんただって毎年可愛くしてあげてるでしょ。それより、明日お母さん達忙しいんだから。日没までに宿題全部終わらせないと、あんた達の浴衣はやってあげないよ」
「はいはい」
 どうせお父さんとデートでしょ。この数年、娘の扱いの適当さといったら。
 麦茶を受け取って、あたしは母を追い出す。
「リミットは明日の日没だって」
「あたしら『走れメロス』か」
 希美はミニなのに、片膝立てて行儀が悪い。でもほんとに羨ましい長い足。
「瑞穂に問題です。メロスは何故、独りで最後まで走ったのでしょうか」
「…何それ。知らない」
「答え。セリヌンティウスと二人三脚だと、間に合わないって思ったからです」
「じゃあ帰れ!」
「うそ! ごめんってば!」
 あたしは座布団を上段から打ち下ろした。希美は笑いながら軽く身をかわす。
「そうだ。花火、坂本も来るって」
 ケータイをひらひらさせて希美がにかっと笑う。頭の中に急浮上する大きな黒い瞳を、もう一度あたしは追い払う。
「ふーん。あいつらほんとに宿題終わるのかね」
 あたしは希美の向かいにどっかり胡坐をかいて、数学の問題集をばっと広げた。希美がひゅう、と口笛を鳴らす。
 かりかりとシャーペンを動かしながら、あたしは少しの間だけ、祭囃子の遠く、かすかに聞こえる響きに耳を澄ませる。



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