第37期 #12
高校のホームルームだった。
「若林君が応援に来てくれました。ありがとう」
春日幸男は壇上から言った。私には覚えがなかった。他人の空似だろうと、同級生たちの注視を浴びながら黙っていた。その理由が後年わかることになるとは、思いもしなかった。
私は五十歳になっていた。恒例の、里帰りを兼ねた夏山登山には、妻も大きくなった子らもだれも付いてこようとはしなかった。独り穂高岳へ向かった。途中で私は、滑落事故にあった。気絶したが、奇跡的に無傷だったので、そのまま山を下った。
なぜか携帯電話がどうしても通じなかった。林道で車に乗せてもらったが、車の型式がひどく古い。それ以上に驚きだったのは、ラジオに流れていた番組だった。「ゲバゲバ・・」きっとリバイバル放送だと思った。しかしニュースになった時、私はその内容に驚愕した。私は問うた。
「ところで、今年は何年でしたっけ」
「昭和四十×年だ」
農協の帽子を被った、日焼けした初老の男は事も無げに言った。私は狐につままれたような気分だったが、そのとき空腹感は確かに実感されていて現実感があった。
私は店を見つけて、牛乳とパンを買おうとした。お金が使えるのかも分からないまま千円札を出した。相手は何事もないようにおつりを出した。私は掌の硬貨を見た。それは旧百円硬貨だった。
「お渡しした千円札何か変ではありませんでした?」と言う私の問いに「いえ何も」と、中年の婦人は怪訝そうに言った。店の外の壁に由美かおりのネグリジェ姿の金属製の広告板が打ち付けられていた。それは真新しく、由美かおりは初々しかった。
千円札は旧札に変容したのだ。時間の矛盾は相当物に変容して解消されてしまうのだ。私は呼吸が乱れていた。それならば、自分は・・。
私は見知らぬ学校の脇を歩いていた。流れて来る音楽に聞き覚えがあった。それは自身の高校の校歌だった。私は校庭に入って行った。誰かが私に話しかけてきた。
「若林君、来てくれたんだ」
私は顔を上げた。そこには春日幸男がトロフィーを持って立っていた。
「うん、ちょっと近くまで来たから・・」
私は自分の容貌を確認しようと洗面所を探したが、古いトイレに鏡はなかった。すべなく校内を歩いて行った。ふと気付くと私の姿が、窓ガラスに映っていた。暗いガラスの中に、陽光を受けた私の顔が映っていた。それは高校時代の自分だった。夢なら覚めよ。