第36期 #9
すねの痛みで目が覚めた。
「ひゃっひゃーっ」
茶トラのロカが泣いている。
「たまには猫らしくないてみろよ」
寝ている私に何かをねだる時、彼は容赦なく私をかじる。すねをかじるのは彼だけである。
彼は猫のくせによく喋る。
舌足らずでまともに啼けないのに、私の言葉には真剣に返答し続けた。
「今起きるから」
日本語覚えたらうるさいだろうなあなどと考え、つい布団の中に再び潜りながらエサがないのかなあと想像した途端、買い置きも切らしていたことに気がついた。
「ひゃっひゃっ……」
彼は日頃の愚痴まで持ち出す。
彼はある日いきなり現われた。
野良のクセにどこか上品で私よりよほど身奇麗だった。そのお里を思うと我が家は情けないが、彼の顔に不満は感じられない。その名は、どうせどこかへ行っちまうだろうとふと浮かんだものを付けたのだが、その行く末がやはり気になり、運命を逆さまにしてやった。
なぜ酔っ払いのタクシーだったのか――国語教師の質問が二十年経っても頭から離れない。小説とはいえ、猫をボロ切れにまでするなんて、
「ひどいよな」
「ひゃー」
エサか、わかったよ。
私はPCを起ちあげた。
無精な私に17インチのロカは壁紙で不満そうだった。その顔をブラウザが覆う。スグクルサイトなんてなかった。
都合良すぎるよな。そう諦めた途端、近所のショップリストを見つけた。その一つをクリックすると酒屋のページが現れた。今時ホームページかよ。だが名前には見覚えがあった。
店主の趣味なのか、デザインはどこか浮いている。以前立ち寄った変わった店だった。
レジ脇にPCを構え、接客中さえモニターを覗き、暇だと客に画像を自慢する。趣味の写真を散々見せられたが、中にたった一枚だけ目を引く写真があった。
闇夜の焚き火に蝶が舞い乱れる。でもなぜ夜なのか。でも美しかった。でもどこかで見た気もする。蝶は炎に消え、炎から蝶が現れる。羽根が瞬き鱗粉がきらめく。
炎なのか蝶なのか、私は惹かれた。
「これ壁紙に欲しいんですが、幾らですか?」
「1クリックです」
痛っ。誰かがクリックした。痛たっ。誰が? クリック? ん
「痛ぇーっ」
すねの痛みで目が覚めた。
枕元にロカがいた。勝ち誇った顔で満足そうに私を見ている。彼は足元の何かをくわえ、目の前に差し出した。
「そんな貢物はいらないって言ったじゃないか」
彼の口から、1インチほどの蛾が落ちた。
「ありがとっ」