第36期 #16

天体観測

 終電なのに電車は混んでいた。皆よく働く。日付はもう、明日だというのに。
 改札を抜けてそれぞれの方向へ、帰宅の人々は街に吸い込まれていく。ぼんやりとその後姿達を見送りながら、私も家路に向かう。見上げれば満月が、この春に引っ越した新築のマンションをピカリと光らせて、完璧な直線を縁取っている。
 705の部屋に鍵をさし込む。ところが鍵は何の抵抗もしない。いくらなんでも鍵が抵抗しないのはよくない。私は溜息をつく。また鍵を掛け忘れてるんだ。
 ドアを開けると、ベランダからの風が擦り抜けていった。玄関にはどうやったらこんな風に脱げるのか、スニーカーが好き勝手な方向に転がっている。よけるようにヒールを脱いで、下駄箱にしまう。その中は半分がスニーカーで半分がヒール。ややヒールが劣勢。そうだ、と私は思う。いつの間にか茶碗が増え、コップが増え、歯ブラシが増え、私が仕事へ行く度に見知らぬものが増えていき、この部屋を侵食していく。部屋だけではない。いろんなものがだ。そしてそれに私が含まれるのだからたちが悪い。
 ベランダへの窓のカーテンがひらひらと風に揺れていて、赤いTシャツが見える。
「あ!おかえり!」
場違いに大きな声がカーテンの隙間から聞こえた。
「見て見てこれ!美紀のクローゼットの中こんなの入ってたよ」
自慢げにさすって見せたのは天体望遠鏡だった。また人の荷物を勝手に漁ったのか。という言葉をすんでで飲み込む。小言は無能な部下だけで十分。
「望遠鏡ってプラネタリウムみたく星がいっぱい見えるのかと思ったらさ、全然見えないのなあ。東京が明るいからかなあ。でもさ、月はすごいぜ。表面ぼこぼこ!しかもさ、俺びっくりしちゃったんだけど、月ってすごい速さで動いてんだなあ。ちょっと目を離すとすぐ画面から消えちゃうんだよね。あ、また動いちゃった」
そんなこと知ってる。だってそれ、私の望遠鏡だもん。そんなこと知ってる。だって私、君より7年も長く生きてるんだもん。君がびっくりするくらい世の中が速く動いている事だって知ってる。
ねえ、それとも22歳と29歳では時間の速さも違うのかしら。
望遠鏡でものぞいてみなけりゃ、それが解らないほど遠いのかしら。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出す。ちょっと考えて、それを思いきり上下にシェイクする。相変わらず、すごいすごいと言いながら望遠鏡をのぞく背中に声をかける。
「ねえ、ビール飲む?」

 



Copyright © 2005 長月夕子 / 編集: 短編