第36期 #12

祈りの姉弟

 村の横腹を流れる川の川上に向けて雑木林の中の小道を進んでいくと次第に落ち着かないような気持ちが湧いてくる。木々の緑の葉の若干濃くなったような感じ、虫の音の急に小さくなった感じ、どんよりした空気が音や光をくるみこんで湾曲させているような感じがしてくる。それを我慢して歩むうち薄汚れた小さな鳥居が現れる。その薄汚れた様子、小さくて貧相で名の通ったどの神社とも関係のなさそうな、それだけに不安な、そんな鳥居は、大人だと少し前かがみにならないと通り抜けられないほど低い。そして鳥居の手前には粗末な小屋が立っていて、代々の巫女が住んでいた。
 年若い主婦はその小屋の前で立ち止まり、額の汗を拭った。よく晴れた夏の日の午後、強い日差しの下、家から一人で歩いてきて、一時間以上かかった。
 表戸を開けるとすぐに座敷が見えて、布団を敷いて千春が寝ていた。十六歳、黒髪に丸く突き出た愛らしい額、面白そうに光る澄んだ瞳の少女は、大変に長身で、ひどく痩せていた。父は知らず、母を亡くし、村人の善意とも畏怖ともつかぬ曖昧な衝動に頼って暮らしていた。
 枕元に座って見下ろすと、千春は明らかに元気がなかった。
「千春ちゃん」
 女はささやいた。千春は目を覚ましていて、奥の部屋の弟の様子を見てきてくれと頼んだ。見に行くと、弟はぽっちゃりと太った血色の良い頬をしてすやすやと昼寝していた。すぐに戻って、千春にそう伝えた。
「あちし、おとうとが、心配なの。とうっても心配なの。これからどうなるのだろうと考えて考え続けて頭の芯から痺れてくるの」
「弟さんは、元気そうねえ」
 千春は答えなかった。
 女は村の話をした。今年はとても天候が良いので非常な豊作が見込まれること、だから米の価格が下落するだろうこと、国の奨励どおり稲作を止めて野菜を作り始めたが、海外の安い野菜が大量に入ってきて先行きが不安なこと、政府はそれぞれの農家の自己責任であると言っていること、最近夫の機嫌が悪いこと、など、など。
「あの学生さんがここへ来て頼んだら、千春は村に来てくれるかしら」
 女は独り言のようにつぶやいた。千春の返事はなかった。ふとそれはそうだろうという気がした。あの学生はこの村の者じゃないんだ。テレビのスイッチを切るように、まもなくいなくなるんだ。それよりも千春が自分の弟を心配するのは当然だ。
「弟さんは、とても元気よ」
 けれども千春の憂い顔は晴れなかった。



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