第35期 #12

方舟

 この世界に住む人々が、神を敬わなくなって、どれほどの時が過ぎたか。

 人々は惰性や世間体のためだけに教会へと通い、神父は金儲けのために神の教えを説く。
 祈りの言葉に心は宿らず、オウムが人の声を真似るかの如く、ただ消えていく。
 自分達の都合の良いように歪められた教義。そして、同じ神を崇めているのにも拘らず、その教義の違いだけによって引き起こされる戦。

 自分勝手な人間達に、神は心を痛め、叫ぶ。
 だが、人間達には届かない。どんなに神が喉を枯らそうとも、耳を貸そうとはしない。 やがて、神は叫ぶのを止め、いつしか、狂気に捕らわれた。

 それから、百年の月日が流れた。

 小さな村に、信心深い夫婦がいた。夫婦はただ粛々と、毎日を過ごしていた。
 ある日、夫は不思議な夢を見た。夢の中で、夫は妻と船の上にいた。
 そして、神が現れ、こう告げた。
「裁きの時は近い。正しき者よ。船を作り、動物達のつがいを乗せ、その時を待つのだ」
 流石に夫も、その夢が神からのお告げだとは思わなかった。が、妻の夢の話を聞き、考えは変わった。同じ夢を見ていたのである。
 その日、夫婦は細々と蓄えていた貯蓄を使い、古い船を買い上げた。そして、二人だけで修理を施し始めた。
「猟師にでもなるのか?」
 村の者は、二人を嘲笑ったが気にせず、ただ黙々と作業を続けた。

 修理が終わったのは、季節外れの大雨が降り出す前日であった。夫婦はその雨に只ならぬ物を感じ、動物達や食料を乗せ、海へと出た。
 その時、村から火山の噴火のように、水が噴き出すのを見た。
 全ての大地を海の底へ沈める、神の裁きが始まったのである。

 一年半が過ぎ、船は地上に佇んでいた。そこに、夫が一人で座り込んでいた。
 水が引いたのは、一年後だった。そこまでは、問題無かった。
 種籾を蒔いたが、海の底に沈んでいた大地から、芽は出なかった。原因は土壌だけではない。一滴も雨が降らないのである。
 やがて、動物達が飢えや喉の渇きに耐えられず、一匹また一匹と死んでいった。夫婦達はその血や肉を得る事で、辛うじて生き延びた。が、それも時間の問題だった。
 妻が死んだのは、数日前だった。夫は妻の骨だけを埋めた。
 夫は呟いた。
「なぜ、神はお告げを」

 そして、夫は夢を見た。夢の中で、神は言葉を紡ぎ始めた。
「裁きの時は近い。正しき者よ。船を作り」
 そこまで聞き、夫は悟った。そして、夢から覚める事は無かった。


Copyright © 2005 神崎 隼 / 編集: 短編