第34期 #9

旅路

 タタッタタッ、タタッタタッ、タタッタタッ、タタッタタッ、
 小気味のよい振動を刻みながら、列車は分水嶺の長いトンネルを抜けると、たちまち車内に眩しい光線が差し込み、やや遅れて新緑の風景が、ぼぁと背後から浮かび上がってきた。目の前にいたサラリーマン風の若者がうたた寝から身を起こし、私と目が合うと、ややや、と幾分慌てた様子で立ち上がった。くるりと私に背を向け、その背中で小さく
「どうぞ」
とボソリつぶやきを残す。あ、いや、どうしたものか、私の意向に構わず扉の脇へ移動し、携帯をもてあそび始めた。
「ありがとう」
彼の背中に頭を下げる。
 座席に腰を下ろすやいなや、それを待ち構えていたように隣の妙齢の婦人が、
「今日は、いいお天気ですねぇ」
と呟いた。ああ、ほんとにいい天気だ。窓から青い空を覗き込みながら、ふむ、どこかで聞いたような声だな、ひどく懐かしい気分が押し寄せてくる。何気に膝の上に重ねられた婦人の年期の入った手の甲が目に入る。左手の薬指に、私の同じ文様のプラチナの指環。長い年月にさらされ、傷だらけになりながら、鈍く外からの光を乱反射させている。ああ、あなたは妻だったのか、こうしてふたり並んで列車に乗るのなんて何年ぶりのことだろう。いや、何年も会話すら交わしてないのではなかったか。婦人の、妻の、しわを刻んだ横顔をちらりうかがい、何故だかようやく彼女に出会えた気持ちが押し寄せてきた。
 タタッタタッ、タタッタタッ、タタ、タタッ、タタ、タタッ、タタ、タタ、
 初夏の緑のトンネルをくぐり抜けた列車は、速度を落とす。
「さあ、あなた。着きましたよ」
妻が私の肩を二度三度ぽんぽんと叩き、立ち上がる。扉の脇の青年にひとつ会釈をし、わたし達は列車を降りた。真っ白な砂を敷き詰めたホーム。そして真っ白に塗り込められた駅名標。雲ひとつない真っ青な空の向こう側から、巨大なブーゲンビリヤがの真紅の葉を幾枚ともなく散らせている。ここは一体どこだ、と問うべき相手はすでに、無人の改札を抜けようとしているところだ。
「おおい、待ってくれ」
 私は小走りになって、妻の後を追った。



Copyright © 2005 さいたま わたる / 編集: 短編