第34期 #29

ばら色の頬

 蟇蛙の声が聞こえる薄暗い畦道を月に照らされ薄くひきのばされた影を引きずるようにしてとぼとぼと歩く少女の赤い羽織がやけに大きく不釣合いなのは少女の手を引く老人が羽織らせたものだからだろう。不意に老人が咳き込むようにして蹲ると、何か苦しげな声を漏らし、そのままぐるんぐるんと転がっていって大きな鞠となってしまった。黙ってそれを追いかけていった少女は特に驚く風でもなく、老人の顔が地面につかぬよう苦心して鞠を転がすと畦道を逆戻りしていった。

 ぼんやりと燈る街路灯がぽつりぽつりと並び始めると、直に賑やかな通りとなって、楽しげに談笑する男女が少女の頭上に笑い声を降りかけるのだが、少女は素知らぬようで鞠を転がし続け、通りの中程にある肉屋に向かった。
 肉屋の薄暗い店頭には頭の禿げ上がった男が不景気な顔していて、鞠を転がす少女を黙って迎え入れると、鞠を抱え量りにぶらさげ不景気な顔をさらに顰めてから少女に幾枚かの札片を渡した。
 背を縮め俯き加減にして人ごみを通り抜け、銀行の手前にある駅から緑色した路面電車に乗り込んだ少女は、自分は立ったままで、赤い羽織を脱ぎ席に座らせた。大きすぎる羽織だとばかり思われたそれは赤い羽織を羽織った変に薄べったい老婆で、少女に何ごとかぶつぶつと話しかけるのだけれど、少女は何も答えず、次の駅でさっと降りてしまった。取り残された老婆は、皺くちゃになった目と口を大きく開け、叫び声をあげようとするのだが、言葉にならないようだった。

 陋宅へようこそ。と迎え入れた少女の様子がすっかり見違えるようになっていたのは、途中、洋髪理容店で髪を梳ってきたからで、波打つ黒髪が美しく、そっと携えていた小さな花束を私に差しだす様子は、外国映画の一場面のようだった。小さな藤色の花を咲かすそれはどこで知ったのか私の誕生花であるヘリオトロープに違いなく、屈みこんで受取ると少女はばら色をした頬を私の耳元によせて、何ごとか囁こうとしたのだけれど、そのか細い息づかいが耳に触れるやいなや、少女は糸が切れたようにぐんにゃりと床に崩れ落ちてしまって、何を私に伝えたかったのか、もう解らない。
 私は不具合がないか崩れ落ちた少女を仔細に点検してから、彼女を抱え上げて、陳列棚の空いているところに腰掛けさせてやった。白い頬をうっすらと染め、瞳を閉じ静かに座っているその姿は、生きている少女となんら変わらなかった。



Copyright © 2005 曠野反次郎 / 編集: 短編