第34期 #26
職を失した三十八歳の初夏、私は突然左眼の視力を失った。視神経に異常は無く、医者は、精神的な問題です、と片付けてすぐに次の患者へ心を移した。
陽の射さない部屋の片方だけが、色濃い闇に包まれた。その濃淡の狭間に漂っていると、唯何もせずに一日一日が過ぎて行った。食すことも寝ることも忘れる程であった。
或る時、漆黒の中に何かがほのめいた。
それは小学生の頃によく遊んでいた、紗代という少女であった。私より少し背が高く、黒髪と首が印象的に長かった。闇の中いつまでも、懐かしい彼女の姿が踊る様に駆けていた。
紗代は学期の中途で都会から越して来た。子供達が向ける都会者への羨望と蔑みの入り混じった視線の中で、根を張ったように席に座っていた。その彼女と、男子の中でも一際愚図だった私が何故親しくなれたのか判らない。が、あの頃私は他の誰とよりも、紗代と共に時間を過ごした。
色白で痩せっぽちの容姿に似合わず、紗代は近所の林を駆け回るのを好んだ。彼女ははしゃいだ声を上げながら、私の手の届かない所を跳ね回っていた。
しかし、闇に舞う彼女の様子は、独りいい様に遊ぶのではなく、実は常に私の様子を窺っていた。私が愉しむ姿を見た後で、彼女は漸く本当に笑うのだった。幹に寄り掛かって追い駆けて来る私を待つ彼女の表情は、私を按じ想う底深い温かみを帯びていた。
そうして私はアパートの自室で、右眼に晒される孤独の白日よりも、左眼に甦る紗代との思い出の闇に浸り続けた。
或る時、紗代は我に返った様に突然脚を止めた。いつもと違う様子を感じ取った私は、歩を緩めて彼女に近づいた。彼女も少し臆したような軽い歩みで、息が掛かる程に詰めて来た。
心中を図りかね、その瞳を覗き込もうとした私を、紗代は突然押し倒した。上乗りになって少し私を見詰めると、そのまま私に口づけた。
数秒してそっと唇を離した後も、紗代は私を見下ろしていた。その瞬間の、滲んだ羞恥が苦笑となって浮かんでいる彼女の顔を、私は薄目を開けて密かに仰いだ。今左眼の闇に鮮明に映じた彼女の微笑みは、そんな湿度を感じさせない、渇いた所に照る陽を想わせたが。
それを最後に、左眼の闇は何も映し出さなくなった。
あれは、私が本当に見たかった風景だったのかも知れない。そしてそれを見終えてしまった今、私は左眼の分、半分止された人間なのだと感じた。
幾度目かの日没が、部屋を黒く塗り潰した。