第34期 #20

夜話

 帰りの遅い浩介を待つために、洗濯は夜干すと決めていた。待ちきれずに浩太郎のそばで寝てしまうこともある。そんなとき、朝起きて見るとテーブルの上はゆうべのまま、伏せた茶碗と汁碗が並んでいた。
「食べなかったの」
「遅すぎて食欲なかったんだ」
「かぼちゃのみそ汁おいしくできたのにな」
なるたけ明るい声で透子は言い、手早く食器や箸を片づける。
「今日は早く帰れそう?」
「うーん、いつもと変わらないかなぁ」
言い終えて、浩介は無造作に顔を洗う。
 洗濯を干し終えた透子はベランダにもたれて口笛を吹いた。曲名はおおスザンナ。小学校の音楽の時間に習ったことがある。音を辿るのは気持ちがいい。喉の奥に溜まっていた疲れが少しずつ溶け、木々も屋根もしっとりと濡れた目を覚ます。それから、形のいびつな新芽の一枚一枚が動きだし町を覆い始める。透子は唇を尖らて、息の通り道を作る。掠れた空気が次第にありったけの緑を増幅させていく。緑という緑で町が埋め尽くされると、ひと吹きの風にすべてが黒く光り出す。水たまりを越えた瞬間に映る裏返しの景色のようだ。何一つ変わらない外観でも、わずかに風が反響しているのがわかる。音が変わった、と透子はつぶやく。おおスザンナ泣くのじゃない。バンジョーを持って出掛けたところです。すっかり変わってしまった町を眺め、透子は続きを吹いた。
 二・三日暖かい日が続いたからってあわてなくてもよかった。苦笑し呼吸を整える。お揃いのロゴ入りTシャツが夜の空気に張り付き短い袖口をうねらせている。そのたび水色が流れてくるようで、透子は身震いした。夜は思いの外冷える。息を吸い唇を開きかけた時、ただいまと浩介が帰ってきた。ほほの緊張をほどいておかえりと答える。ほんの少し尖らせた唇が冷たくなっていた。
「ご飯あっためるね」
まだ何も乗っていないテーブルに、透子は灰皿を置く。ハンバーグを焼くため、フライパンに油を注いだ。油は落とされたところにゆったりとどまり、やがて薄く広がった。
「なぁ、さっき誰か口笛吹いてたろ」
ライターを試し付けしながら浩介が聞いた。
「家の近くまで来たら聞こえたんだ」
そう、とだけ返事して、透子はハンバーグを裏返した。急な動作にならないようにと思ったが、もう裏返してしまった。
「あなたの知らない人よ」
たいした問題でもないというふうに、浩介は煙草に火をつけた。たいした問題でもない夜がふたりの間を流れていった。



Copyright © 2005 真央りりこ / 編集: 短編