第34期 #15
真由子は色の白い女であった。化粧気の無い真白な頬に触れたいと思ったことは度々あったが、その度に工具の油で汚れた自分の黒い指を慌てて引込めた。そんなときいつも真由子はにこりとこちらを見るのだった。彼女の汚れを知らない無垢な笑顔を見ていると、自分がどうにも不純に思えて仕方が無かった。真由子の横に立っているだけで幸福を感じた。その度に罪悪感が積った。
真由子は僕を先生と呼んだ。歳は5つも離れてはいなかった。真由子は丁寧な言葉をさらりと話した。僕の方がしどろもどろでいつも真由子に笑われていた。コーヒーをお淹れしましょうか。そう言って彼女は狭い机の後ろを通り奥の部屋へ入る。いつものコーヒーメーカで淹れたコーヒーが格別に美味く感じた。君はコーヒーを淹れるのが上手だね。冗談めかして言ってみたがやはり真由子はくすりと笑うだけだった。
大学の第一実験棟の片隅でマッキントッシュに打ち込んだプログラムを直している時に、真由子の声が聞こえた。僕のいる場所から姿は見えなかったが、この実験棟に出入りしている女性は真由子しかいない。何より僕が彼女の声を聞き違えるはずが無かった。もう一人は真由子を指導している森教授だった。僕の上司である。こんな深夜まで研究ご苦労様。こころの中でそう言ってマッキントッシュと向き合った。解析を開始する。進むプログラムをじっと見つめながら、反対の隅にいるはずの真由子のことばかりを考えていた。数分後、不意に聞こえてきたのは真由子の小さなあという声だった。定期的に聞こえてくる小さなそれが真由子の喘ぎ声だと気付くのにそう時間はかからなかった。声は小さかったが熱を含み、布の擦れ合う音が聞こえてきた。まず耳を塞ぐべきだったのかもしれないが、僕の両手は僕の顔を覆った。両手で遮られた黒い視界の中で真由子の情事を思う自分の思考が堪らなく不潔に感じた。そっと両手を顔から離すと、相変わらず黒く汚れた僕の指が視界に入った。モニタは相変わらず決められたプログラムを進めるだけだった。どちらを見るのも嫌だった。仕方なく仰いだ実験棟の天井は高く静かで、ただ真由子の声だけが響いていた。