第33期 #27

5月のゴッホ

私は道化に追われていて捕まる寸前だった。突然体が軽くなってビルの屋上まで飛んだ。道化は非常階段をかけ上ってくる。私は道化に向けて小便を放った。
いつもここで目覚める。

香ばしい匂いが台所から漂ってきた。
「大阪にゴッホ展がくるんだって。いこうよ」
珈琲を飲みながら私は妻に応えた。いいよ。
私は締切り前の原稿を仕上げるべく閉じこもり、妻は比べると言って鴨居玲の絵を観にいった。
三日後私達は新幹線に乗った。

大阪はからりと晴れている。ゴッホ展は盛況で時間を忘れ、出ると空が茜色に染まっていた。中之島にあるホテルへ行った。バーナード・リーチ設計のバーを妻は気に入っている。夕食後はここでのんだ。
「鴨居はゴッホに敵わないわね」
どうして? 私は訊いた。
「ただの椅子がゴッホの椅子になるんだよ。平凡な麦畠がゴッホの麦畠になる。これが芸術の力よ。鴨居は人間ばかり」
反論しなかった。私は一人になりたかった。部屋に戻って妻を寝かせて、出た。小雨がしょぼついている。タクシーを呼んだ。行き先はどこでもいい。
「淀川へ」
「淀川も広いですよ」
私は自分の生まれた町の名を口にしていた。

ゴッホは嫌いだった。あの瞳は狂人の目だ。本当の狂気ではない。本当の狂気とは夏の日本海のような静けさを内包しているものだ。私はその点で鴨居玲が好きだった。ところが今日、絵の優劣ではなくゴッホの自画像に、あの、私を追ってくる道化の眼をみた。道化はずっと私をみていた。私は混乱した。

タクシーを降りた。二度と戻るつもりのなかった町。しかしスモッグの臭いを嗅ぐと落ち着いた。不思議だった。半ば夢遊病者のように小雨のそぼる道を歩いた。辿り着いた場所は工場跡地の空地。子供の時と全く変わっていない。私は腰をおろした。雨がじゃんじゃん降り出した。

ここで頭のいかれた青年に裸にされた。私はその状況を独りで演じ始めた。口も手も勝手に動く。私は犯されたことを思い出し、認めた。雨は止んでいた。帰ろうと思った。

部屋に戻ると妻は本を読んでいた。ずぶ濡れの私を妻は見た。私は気を失った。

夢をみた。道化が追ってくる。捕まった。もう飛べなかった。道化はナイフを持っている。黙っていると、道化は自身を傷つけ始めた。私は大人になっていた。道化のナイフを奪った。いつのまにか私達は淀川にいて、私はナイフを川に投げ捨てた。道化は泣いている。私は肩をぽんぽんと叩いた。

それっきり道化の夢は見ない。



Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編