第33期 #19

 桜の花びらが庭に舞い散る中、私は座敷で死者と向き合っていた。
 春の柔らかな日差しを受けるその顔は、少しやつれてはいたし、白髪もあるけれど、苦悶することなく死んだのだろう。安らかな寝顔ともとれる。けれど、薄い布団に寝かされたその体は、二度再び起き上がることは無い。
 野垂れ死ぬとはいい気なものだと私は思った。

 もう母が死ぬというときになって、突然姿をくらました。母がうわごとでその名を呼んで、手を差し伸べても、そこにあるのは暗闇だけ。裏切り者、薄情者、うそつき、怠け者、卑怯者、弱虫。いくら罵ってもきりが無い。
 もう二度とこの家の敷居をまたぐなと言った亡き祖父に、泣きながら母と私に謝り続けた亡き祖母に、私は手を合わせる。
「ごめんね、おじいちゃんおばあちゃん、この人家に入れちゃったよ」
 桜の枝がつくる影が、私の頬を幾度かなでる。
 穏やかな風にふと目をあげると、桜吹雪の庭に、男が立っていた。9歳だった私を捨て、病の床の母を捨て、祖父母を捨ててこの家を出て行ったその姿で。この20年、頭の中に渦巻いていた恨みが、のど元までせりあがる。
 と、男は、右手で頭の上のソフト帽をつかむと胸の前に持っていき、私に向かって深々と頭を下げたのだ。
「……父ちゃん」
20年前一生口にするまいと誓った言葉が、唐突に唇からこぼれ落ちた。
「父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん」
一度声にしたら、堰を切ったように止まらない。音も無く舞い散る桜の中、微動だにせず、父はただひたすら頭を下げ続ける。スーツの裾だけが春風と遊ぶ。
「父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん!」
何で出て行ったの?父ちゃん。お母ちゃんは死ぬまで父ちゃんを呼んでたのに。どうして私を置いていったの?父ちゃん。教えてよ、父ちゃん。もう誰も責めないから、誰も怒らないから教えてよ。私のことが好きじゃなかったの?産まれて来ない方がよかったの?また私を置いていくの?また私を一人にするの?父ちゃん。
 裸足で縁側から庭に降りると、樹の下に走る。しかし、父の影は急速に遠ざかり、やがて桜の向こうに消えた。私はそのままの勢いで桜の樹に抱きつく。私が産まれた時に父が買ってきたという桜の苗木は、両手をまわすほどの太さになった。
「父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん……」
髪に肩に、音も無く桜の花びらが降り積もる。
 冷たい幹が黒く変色したのを見て、私は泣いていることに気がついた。



Copyright © 2005 長月夕子 / 編集: 短編