第33期 #18

ときにフェロモン

「はぁ〜っ・・・よおし、大丈夫ね」

 24才の衿子はお出かけ前の口臭チェックを欠かさない。彼女は息を吹きかけたカルロスの反応で口臭を調べている。カルロスはペットのドイツ犬なので何も言わないが、その微妙な表情や頭の振り方でニオイの有無と程度を判断することができるようになった。
 抗菌・消臭グッズや消毒用アルコールを取り揃えた彼女は、部屋や用具類を含めて、汚れや臭いがない生活を標準と見なしている。先日は、欧州産のナチュラル・ミネラル・ウォーターを飲む直前、微小な埃を虫眼鏡で見つけ返品した。通勤電車では、つり革は必ずハンカチを介して握ることにしている。
 そんな衿子が過去に親密なお付き合いをした男性は5人。当然のことながら、誰もが何らかのニオイを有していた。もっとも、それらのすべてが悪臭ではなく、乳酸発酵のような甘酸っぱい匂いもある。でも、彼女は、どんなものであれ、たとえ僅かでも、口臭や体臭が平気ではいられない。だから、彼女は男と唾や汗を共有すると集中力が乱れ、誰とも一体感を得ることができなかった。
 彼女の友人の話では、思春期を経た男女は特定の相手を誘うために肌や口から揮発性化学物質を放出し、芳香ではなくても時と場合によって、それが心を安らかにしたり熱情を刺激したりするらしい。その受容感覚はキスによって鋭く発達する、という。

「男の汗臭さにぞくぞくなると言う人が信じられない」

 ところが、会社の運動会の日、衿子にとって珍事が起きる。差し入れに彼女が作ったおにぎりを、無心にぱくつく男の姿を見て、自分の本能が解き放たれた気分になったのだ。それからの衿子は、その男、慶三のことが気になって仕方がない。地方出身の慶三はお国訛りを隠そうともしない素朴な男で、そもそも、理知的で美顔の衿子が、高卒で野暮ったい慶三を相手にするのは意外である。
 ふた月が過ぎ、休日の当地で発生した震度5の地震は平和でクリーンな日常を吹き飛ばした。そのとき何があったのか知らないが、ひとり住まいの衿子と慶三の仲は急速に進展していた。以来、衿子の嗅覚は愛しい慶三のしるしを求めるようになる。

「人のにおいが快感に結びつくとは思いもよらなかったわ」

 情熱の夏が到来し、猫のようにじゃれていた慶三と衿子は、自転車の相乗りをして軽やかに自然へ溶け込んでいった。



Copyright © 2005 海野茂雄 / 編集: 短編