第33期 #11
「パパ」
背中の声にビクンと震えた良夫の動きが完全に止まった。
彼はパジャマから普段着のズボンに履き替えようとしていて、だが、ひどく焦ったその作業は、いっこう進んではいなかった。
「弘明! お、お、お前、車に撥ねられたって、ママから……」
「ううん、ちがうんだよ」
「えっ」
「あれはウソ、でもほんとうは、パパは、ぼくが死んだほうがよかったんでしょう」言いながら弘明のふっくらと柔らかな頬が涙にゆがむ。
「だからね、だから、ママがいったんだ、きょうはパパをうんとこらしめてやろうねって」
「あっ……いっ」
「パパ、ごめんなさい」
それに込められた思いのあまりの切なさに、良夫は思わず弘明を抱いた。
薄い身体だった。すぐにそこから熱いぬくもりが良夫の身体に伝わり、そうしてどうしようもない愛しさが彼の胸をつきあげた。
――ああ、いったいなにやってんだオレは、こいつを、こんなに……この子を、こんなに苦しめて、バカヤロウ
良夫は弘明を、さらに胸に包み込むように抱きなおす。
「でもね、パパにこうしてもらうのって、なんだかはじめてみたい」
「うん、うん、そうだったかもしれない。ごめんな、ごめんな、弘明」
薄い生地をとおして弘明の涙が良夫の胸をぬらす。激しい後悔が胸を焼くのか、それは火傷をしそうなほど熱い感触だった。
「お前、晩ご飯はどうした? お腹へってないか」
「うん、へいきだよ。ぼくのぶんは、ちゃんととってあるんだから」
「そっか」
「でね、そのあとはデザートのケーキもあるんだよ。ねっ、パパ、いっしょにたべるんだよね」
「ああ、もちろんさ」
弘明の頭ごしに、ドアの隙間からのぞく妻の顔が見えた。その目がクスリと笑っている。
「ケーキって、あいつ……ずいぶん手がこんでるな」
「だって、きょうは、ぼくの7才のおたんじょうびなんだよ」
その瞬間、良夫の目から大粒の涙が可笑しいくらいこぼれ落ち、彼は弘明を抱く腕にいっそうの力をこめた。
「い、いたいよ、パパ! ああ、でもパパって、あったかーい」
「そう、あったかいなあ」
「パパ? ずっと今のようでいてくれる」
「うん、きっと。約束だ」
頬をくすぐる息子の柔らかな髪の毛から、ほんの少しお日様の匂いがすることを良夫は感じ取っていた。