第32期 #21

道の途中

 ちっとも慣れることのないパンプスを履いてとぼとぼと歩いていると、急に小雨が降ってきた。今いるところはバス停の近くで、見ると隣にバスがいる。私は少し考えて、結局乗り込むことにした。この道は常に渋滞しているので、このバス、いつたどり着くのか分かったものじゃないけれど。
 整理券を取りステップを上る。すると突然、女の人から呼び止められた。
「ねえ、こちらに座って下さらない?」
 運転席の後ろの席で、上品な雰囲気の人が手招きしている。他には客は乗っていなかった。何となく言われるがまま、私は彼女の横に座った。

「就職活動をされているのかしら。最近は大変でしょう?」
 きっとこの紺のスーツがどこか不自然なのだろう、私を観察しながら『奥様』が言う。その一言がきっかけとなり、今日の面接のシーンがフラッシュバックする。私はそれを振り払い、とりあえず、
「そうですね」
 とだけ答えてみた。そして続く言葉を必死で探したが、でも考えてみるとこれは面接でも何でもない。
「女ってだけで差別されたりしていない? 今は平等な社会で女も男と同じように働けるのよ」
 奥様はそう言って、
「だったかしら、あなた」
 と呼びかけ口調で語った。あなたと呼ばれる筋合いはないはずだが……。
「このバスの運転手、うちの主人なの。今日は定年退職前の最後の運転だから、記念に乗り込んだってわけ」
 運転中みだりに話しかけてはいけないと書いてありますよ、奥様。混乱する私をよそに、なおも続ける。
「主人、ずっと組合の活動をしていますの」
 話しかけられても答えてはいけない規則になっているようで、運転手はひたすら無言だった。

 バスがのろのろと進んでいる間、会話は続いた。奥様は丁寧に私から聞き出した。いや、むしろ私自身が欲していた、誰かに掬い取ってもらいたかったのだ。自分で大学を選び、仕送りをしてもらって通っているということ。やりたい仕事。それからそもそも働くということ。
 一通り話を聞くと奥様は、
「ご両親には連絡しているのかしら? 多分喜んで相談に乗ってくれると思うわ」
 と言い、
「うちは夫婦二人だから分からないけれど」
 と付け加えた。私の頭にある想像が浮かんだ――奥様は微笑みを絶やさなかったが。

 ようやくバスが営業所へと到着した。花束を持った職員が近寄ってくる。奥様が一緒に写真を撮ろうと言う。
 いつの間にか青空になっている。私は窓からそれをしばし眺めた。



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