第32期 #16

ゆめうつつ

 日が沈めばお別れで、瞬きするたび男は透けてゆく。
 何時の間にできたか知れない骨董屋で手に入れた小壜。琥珀色の液体を飲み下せば、黄昏から日没までのあいだ幻に酔えるという触れ込み。
 女は、消え去った男が瞼の裏に写し取れたかと目を閉じた。だが何も残っていない。
 こうして女の骨董屋通いが始まる。小壜一つで効果は一回きり。来る日も来る日も高値の小壜を購入する。骨董屋に同じ品物が大量にあるとは奇妙。が、既に女は気を回す余裕さえ失っている。
 ある日の女の幻に、男の他に一人の女が映る。何やら仲睦まじい様子。女は叫ぶ。こんな幻を見たいのじゃない!
 骨董屋に文句を言う。金を返せと脅しつける。困った骨董屋、堪らんとばかり溜息をついてこう言った。
 「望みは叶えてやったのだ。さあ地獄へ参ろうか」
 立ち尽くす女。途端に体が浮いた。目を見張れば遥か上空。どういう事だと詰め寄る女。骨董屋改め死神はこう答えた。
 「お前が見たのはそうなるはずだった幻。お前は己の息子の命を奪ったではないか」
 一気に甦った両手の感触。小枝のような首を押さえつけた冷たい激情。
 女の両手がボロッと落ちた。
 「地獄で悪さが出来んようにな」
 死神が遠ざかる。落ちていた。
 落ちる……落ちる……落


 覚めて開いた目に、わたしの人差し指を掴む小さな手が映った。反射的にその手を外そうとして、外せなかった事にはっとさせられた。寝つかせてから、ベビーベッド越しに陽助を見つめて考えていた事を思い出したからだ。
 今まで見ていた夢の内容を、断片的ではあるけれどまだ憶えている。陽助がわたしを死神から救ったのか、それとも、陽助がわたしを窘めようと見せた夢なのか。そのどちらであっても、「おれには生きる権利がある」と叱られたのだと思った。その時陽助が、何か恐ろしい、大きなものに見えた。わたしがいないと生きていけないはずのこの子が持つエネルギーは何だろう。
 込み上げて来たのでこのまま泣いてしまおうとしたら、突然明かりが落ちた。
 ……。
 何も音がしない。停電だと騒ぐ相手もいない。そうか。感傷は助けてくれないんだ。改めて見た陽助は、わたしがいないと生きていけない、守ってやらねばならない赤ん坊だった。
 馬鹿野郎。わたしが踏ん張らないでどうするんだ。
 その時、陽助の小さな手が、わたしの手を押し出すようにして、解かれた。


Copyright © 2005 三浦 / 編集: 短編