第32期 #10

そこに雨が降る

 「日和見かい」と彼が聞くので、そうですよと僕は笑いかけました。窓の外は随分と日が照っていて、空気がとても気持ち良さそうでした。僕はいつもこんな風に窓辺で外の景色を見ているのですが、最近は彼がやけに話しかけてくるので 少々やりにくい。
「そこに 雨を降らせてやろうか」
 彼は、大きな水色のじょうろを僕に見えるように掲げました。だぷん と音がして、とても嫌な予感が。
「うわっ、何をするんですか」
「雨は楽しい雰囲気だよねえ」
 僕の抗議など意に介さぬ様子で、彼はにこにこと笑いながら じょうろの水をふりかけ始めます。そりゃあもう 楽しそうに。けれどおかげで僕の身体はびしょぬれ。そんな必要もないのに、どうしてくれるんでしょうか。
 一通り水を掛け終わると、彼はまだだいぶ水の残っているじょうろを下げました。いつの間にか、窓の外は濃い藍によどんでいました。雲がじんわりと陰り、すぐ下の並木道に落ちていた陽も もうありません。
「実に寂しい光景ですね」
 ずぶ濡れの僕は水滴もそのままに、そうつぶやきました。彼はじょうろの中に手を突っ込んで、水をすくっては飲んでいました。
「その、寂しい光景ってぇのには」口を拭きつつ。「僕も入っているのかい」
「入らぬ訳がありましょうか」
「いや、ない」
 濡れた指が窓から漏れたわずかな光に燐光のような輝きを放っていたのですけれど、彼は僕が何か言う前に 残らずなめ取ってしまいました。
「それにしても寂しいね」
 じょうろを片手で持って残りの水を自分の顔にさらさらと流しながら 彼はつぶやきました。だらだらと流れる水は小さな川のようになって、部屋のすみずみまで流れてゆきます。もしかしたら、このまま川は海になってしまうのかもしれません。
「寂しいですか」
 僕がぶしつけにそう聞きますと、彼はにやりと笑いました。じょうろの先からは、もうわずかな水しか垂れていませんでした。
「寂しいねえ。……ああ、そら、寂しさがまたやって来るよ」
 水が完全に流れ落ちたと思った時に、今まで閉めきりだったドアが遠慮がちに開きました。暗い顔をした女の人でした。彼はじょうろをからんと落として、彼女の方を向きました。随分と陰鬱な沈黙が続きました。先に口を開いたのは、彼女の方でした。
「あなた、サボテンと話すのは楽しいの」
「楽しいよ」
 彼の言葉に彼女はたいそう苦痛な表情を浮かべましたけれど、僕にはその意味はわかりません。



Copyright © 2005 神藤ナオ / 編集: 短編