第31期 #24

哲学への旅

話をきいてくれませんか、と男が女に話しかけた場所は水戸のジャズ・バー。午後11時。

「一組の男と女がいる。部屋には朝の日差しが射し込んでいて、男は目が覚めて隣に女がいることに気づく。彼女はブラウス一枚で眠ってるんだ。彼女が誰なのか彼は知らない。床には彼が脱ぎすてたままの白いシャツとベージュのズボンがある。まず彼は服を着た。それから彼女の着替えを探すけれどもなかった。部屋はベッドと机、それから小さなCDプレーヤーがあるだけ。こういう状況でお姉さんが男なら次にどうする?」

いきなり話しかけられた女は驚いたがここは酒場だ。男の靴をみた。黒の革のスニーカーを履いている。次に女は男の瞳を覗き込むようにみた。

「あたしならCDプレーヤーの再生ボタンを押すかもしれない。CDは、そうだな、ピア・アンジェリの『イタリア』なんてどう? ねえ、マスター」

カウンターの内側にいた男はピア・アンジェリのレコード・ジャケットをみせてにっこり笑う。まもなく『ヴォーラーレ』と陽気な歌声が店に響きわたった。

「今の話、エドワード・ホッパーっていう画家が描いてるんです。僕、好きでね。明日から茨木の美術館で展覧会があるってきいて来たんだ」

「あ、そうなの。聞いたことない画家だけど、なんだか変な絵ね」
「一緒にこの絵をみにいきませんか、明日」

女は椅子の下の大きなリュックサックをみた。それから男の誘いにはこたえず、逆に質問した。

「大きいリュックね」
「仙台市役所の会計課にいたんだけど、先月やめたんです」
「そうなんですか、仙台からわざわざ」
「ええ。自分が大草原にいる夢をみましてね、それで衝動で仕事やめて、あるときエドワード・ホッパーの絵を画集でみたんですよ。そしたら夢とホッパーの別の絵がそっくりだったんですよ」
「おもしろそうね、あたしも行ってみようかな」

それから二人とも酒をたくさん飲んだ。

「雲を見ながらね、ライオンが女房にいったそうなんですよ。そろそろめしにしようか、ってね。それでライオンとその女房は連れだってでかけてしみじみと縞馬を食べたっていう詩を工藤直子が書いてるんですよ。僕、絵を見終わったらアフリカへ行こうと思ってます。あなたも行きませんか。一緒に縞馬食べましょう」
「いいね、縞馬おいしいかな」

翌朝、ホテルで目覚めた女はまず服を着た。携帯電話をみると婚約者からのメールと着信が併せて11件もあった。



Copyright © 2005 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編