第30期 #15

沈黙

やっと司法試験に合格した倫蔵。司法修習生として、橋元弁護士のもとに実習に行く。事務所に初老の善良そうな夫婦が入ってきた。まるで喋らない。夫のほうがいきなりくるくる手を回し始めた。聾唖の夫婦だった。筆談で会話をすると、夫婦は喫茶店を開いたが、やくざがみかじめ料を取り立てに来るので、相談に来たのだ。夫婦は孝信と由布子といった。警察に言って欲しかったが、正義感の強い倫蔵は相談に乗った。橋元弁護士は帰せと目で合図した。弁護士は金儲けではなく、市民を法の下に救うためにやるのだと思い、倫蔵は橋元を心の中で蔑んだ。密かに連絡先を聞き、仕事が退けた後、その喫茶店を訪れた。そこで見たのは、老若男女が皆、手話をしている。客の大半は聾唖者が集まっていたのだ。交流から発する熱気があるが、音がしない。不思議な沈黙であった。いきいきと生活をする姿に倫蔵は心打たれた。喫茶店をなくしてはいけないと思った。倫蔵も手話を覚え、意志の疎通ができるまでになった。倫蔵は暴力団対策法で取り締まるよう警察に連絡をした。現行犯逮捕の準備をしたある日、やくざがやってきた。客席のかげから様子を伺うと、彼らも手話をし出した。何と聾唖のやくざだったのである。手話で脅している。拍子抜けした倫蔵は席から飛び出し、ピストルの形を手で作り、構えて撃つ真似をした。やくざは、ずどっと倒れた。手話だけに凶器も手話かと感心すると、そのやくざはすっと立ち上がり、倫蔵に殴りかかってきた。調子に乗りすぎたと思ったとき、警察と橋元がやってきた。密かに怪しい活動をしていた倫蔵を橋元は泳がせていた。倫蔵は橋元にこっぴどく叱られた。使うべきところに力は使うものなのだ。危うく道を踏み外しそうになった倫蔵。小さくなっていた倫蔵に孝信と由布子が近寄って手話で「ありがとう」と言った。倫蔵も涙を流して「どういたしまして」と返した。



Copyright © 2005 江口庸 / 編集: 短編