第3期 #8
「手を傾けるだけだ。」
目の前の男が言う。部屋が暗くてよく顔が見えない。私の左手にサイコロが二つ。硝子でできている。色は赤い。やや軽いような気がする。もしかしたら高価な物かもしれない。熱伝導は悪い。
「傾けるだけだぞ。」
男の声は笑っている。手に乗ったサイコロを軽く握る。手を開く。また握る。そんなことを繰り返す。相変わらずサイコロは冷たいまま。もしかしたら、手が冷たいのかもしれない。ふと、そんなことを思う。
「振らないのか。」
姿勢を崩すために男が身を乗り出す。一瞬だけ、いやにうすい唇とその中にある歯、そしてその奥にある舌が見えた。
「俺が振ろうか。」
あの口が上下に動いているのだ。サイコロを握る。がちっと音がした。なんとなく男が微笑んでいるような気がする。顔は見えないがそう思った。
「いや、お前が振れ。」
諦めたのか呆れたのか。不思議な音だ。どう解釈すればいいのか判らない。
「時間はある。」
時間なんて忘れていた。
男の真意が読めない。忘れさせておきながら、存在を確認させる。
「何がでるか、予想できるか。」
わからない。
「俺が予想してもいいが、当たりっこない。」
「振らない限り、何が出るのかわからない。」
「お前は気にならないのか。」
「どうでるのか気にならないか。」
椅子が軋む音がする。男が背もたれによりかかったのだろう。私は猫背でサイコロを見る。
「俺が振ってやろうか。」
「なあに、誰が振っても同じだ。」
「同じなんだ。」
「お前じゃなくてもいいんだ。」
サイコロをかち、かち、と鳴らす。左手で二つのサイコロを玩びながら、目の前の男を見る。部屋が暗くて顔が見えない。しかし、あの口を見てからなぜか表情が判るようになった。手許だけを照らすライトにサイコロの赤が反射し、あの唇と舌の赤だけが頭の中で徐々に濃くなっていく。この二つのサイコロを放らせるために。
「決めろよ。」
サイコロがぎりりと鳴った。
「俺にはわかっていた。」
「サイの目なんか本当はどうでもいいんだ。」
「どうやら、お前は随分ともろいのだな。」
「だが、鮮やかだ。」
「美しい。」
「予想外だ。」
サイは音をたてて粉々になった。砕けたサイから赤が広がる。見えない感嘆の気配が遠くなっていく。そう、お前の言うとおりだ。
そしてこの暗い部屋で私を染めながら広がっていく赤も、ああ、お前が言うとおりサイに閉じ込められ僅かに輝いているままよりもずっと美しい。