第29期 #9

あした来るバス

 海沿いの小さな町に小さなバス停があった。角材だけど角だけ残して中身は筋だらけの棒っきれが、地面から突き出ている。ここがバス停だよとおばあちゃんが教えてくれなかったら、目印だとも思わなかった。けど、バスを待ってる人もバスが止まるのも見たことがない。

 ある日の午後。バス停に老人がいた。グレーのハンチング帽をかぶり、斜面に腰を下ろしていた。小高い丘の裾に沿って土を削り砂利を敷きつめた勾配のある坂道で、私は自転車を押して歩いていた。軽く会釈して通り過ぎると、ハンチング帽が少し傾いた。

 次の日も、老人は同じ場所に座っていた。ずっと前からそこに老人はいたのかもしれない。行きにはいつも自転車のブレーキに気を取られていたし、帰りは学校を卒業してからの進路ばかりに視線を向けていたから、でこぼこの道路に勢いよく老人の影が伸びていることに初めて気づいた。日暮れが早くなったせいかもしれなかった。地面の電信柱になっている影を踏まないように、そこのところだけ迂回して通る。
「こんにちは」
穏やかな厚みのある声がした。
「こんにちは」
声に出して挨拶を返すと、窪んだ大きい瞳と目が合う。
「お勤めですか?」
「いえ、学生です。この道、近道なんです」
制服のブレザーがとたんにスーツみたいに思えて、私はかかとを揃え直した。
老人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お出かけですか」
これまで見たことがなかったバスを見ることができるかもしれない。期待しながら尋ねてみた。
「いや、待っているんですよ」
ハンチング帽をかぶり直して老人は背筋を伸ばした。胸を張った姿は、老人の年齢をいくらか若返らせた。
「あした帰るからと、電話があったんです」
影が次第に薄まり、周りの景色と見分けがつかなくなった。

 風が強く吹いてきて、私は足を踏ん張り自転車のハンドルを握りしめる。潮の粒子がいつしか潜り込み、ぬるぬるとぬめった手のひらからイキモノが生まれてきそうだ。湿った潮溜まりをハンカチで拭うあいだに、ゆっくりと老人は身体の向きを変えた。鈍いエンジン音が遠く、それからはっきりと近く聞こえた。トラック置き場の角に現れた、四角いプリン! クリーム色の車体が右に左に振れ、また右に、左に。道の両側にはすでに枯れてしまったススキが、壊れたメトロノームのように騒いでいる。老人はすくっと立ち上がった。斜めにうずくまっている目印に並び、軽く手を上げる。
 バスが来たんだ。


Copyright © 2004 真央りりこ / 編集: 短編