第29期 #10

剃刀

 とある休日の昼下がり、鏡に映った泡だらけの自分にぎこちなく微笑みかけながら垂れてきた前髪を丁寧に撫で付けた岡村は、新品の剃刀を手に取った。四枚の刃を従えた剛の者である。
 古人曰く、一枚では簡単に刃こぼれしてしまう剃刀も、三枚束になれば驚きの深剃りを実現。この度目出たく四枚連なる運びとなり、トマトの皮の湯むきばりにべろっと髭を刮げること請け合いであった。
 不安を和らげようと微笑みを浮かべていた岡村も、いざ剃ろうという段になり、面の皮を押さえて無表情になった。
 プロレスラーが流血するのはどさくさに紛れて剃刀で額を切っているせいだと本で読んだことが気にかかっていた。さらに、切れない切れないと安全性を謳い文句にすることが、小心者の心には却って切れる可能性の存在を刷り込んでいたのだった。
 ままよ、とままの意味するところをまったく知らぬまま、顎かもしれないし首かもしれないと自分探しの旅路の途中である辺りに刃をあてがった。危険に身をさらすことにささやかな快楽を見出しつつあった彼は、ついでに逆剃りも体験してしまうことにしたのだった。
 かつては自傷行為の代名詞として名を馳せた逆剃りも、近年では隆盛を極めるリストカットにその座を譲っていた。さらに、剃刀は刃を重ねる過程で逆剃りの危険性をも克服していったことになっていたのだった。
 岡村は半信半疑のまま、天地を逆に構えた剃刀を引き上げた。肌も露に海辺に寝そべった若い娘の肢体に容赦なく照りつける真夏の日差しと偶然にも同じく、じりじりと形容される音がした。四枚も刃のある新品の剃刀を逆に構えて剃ったとあれば、髭が消えるのは自明の理。髭以外の安否が気遣われた。
 恐る恐る剃刀の通った跡に手をやって、岡村は息を一つ吐いた。安堵を込めた温かい吐息は、しかし鏡に映った彼の表情を曇らせた。まだ初めの小競り合いで優位に立ったに過ぎないと、警告を発しているかのように思われた。
 岡村が再び首に刃を突きつけると、玄関の呼び鈴が鳴り、宅急便です、と声がした。
 剃刀を洗面台に置き玄関へ向かおうとした岡村は、顔が泡にまみれているのに気付いて泡を食って苦い思いをした。慌てて泡を洗い流して、小走りに玄関へ向かった。
 サインで結構と促され、刻一刻と肌が水分を失うのを感じながら、岡村と書いた。実家から送られてきた一箱の林檎を前にして、こんなに食えるか、と漸く相好を崩した。


Copyright © 2004 戦場ガ原蛇足ノ助 / 編集: 短編