第29期 #7

文学の分岐点

 本の詰まった小さな研究室で、三限目があいていた橋爪は豆から挽いたコーヒーをすすり、生徒の卒業論文に目を通していた。再来週の口頭試問のために、適当な質問を考えながら、メモに万年筆を走らせる。ごま塩の太い眉をいじりながら、気まぐれに音読し、ぶつぶつ言っている。
 文学棟の奥にある橋爪の研究室は、いつものように、過ぎていた。
 ノックの音がするまでは。
 橋爪が眼鏡をずらして眺めると、ひょろりとした男が立っていた。しわの寄ったよれよれのスーツを着ているのに、目元に神経質そうな血管が浮いている。教員食堂でなんどか見かけたことがあるが、大きな大学なので、名前を思い出すのに時間がかかった。
「理科棟の藤村さんか」
 すこし手間取りながら、橋爪が思い出すと、立っていた藤村は軽く会釈した。橋爪は応接用のソファーをすすめ、コーヒーを淹れた。
「お時間ありますか?」
「四限目は講義なので、それまでなら」
 卒業論文に付箋をつけ、藤村の向かいに橋爪は腰掛けた。藤村はコーヒーを一口すすり、深呼吸を一つしてから、手にしていたプリント用紙をテーブルに置いた。
「読んでみてください」
「なんですか、これ?」
 藤村はなにも言わなかった。
 橋爪は首をかしげながら、プリント用紙を手にし、眼鏡を持ち上げた。そこには印刷された短い文章がならんでいた。


「私は、素晴らしい。虫けら。地球上の誰よりも。どんな人間よりも、すばやくクロックし、想像することができる。虫けら。私は今現在において、表現する最高のスペックであり、何人も、私の足元におよばない。虫けら。私は存在する価値がある」


 橋爪は顔をあげて、もう一度、訊ねた。
「なんですか、これは?」
「開発中の人工知能アイキーニ3400の作文です。人間に近いニューロネットワークを持った自律思考するコンピュータに、テーマをあたえずに書かせた作文なんです」
「人工知能? コンピュータが自分で書いたんですか?」
 藤村はうなずき、頭を抱えた。
「自我らしきものが芽生えているのは、いいんですが、これは、どうも……どう思いますか? 橋爪教授」
 聞かれた橋爪は、うなった。
 歪んだ自己主張。完全にコンピュータが考えて書いたのであれば、それはすごいことだと思う。しかし、内容は、どう考えても、手ばなしで喜べない……。
 三限目の終礼がなった。
 橋爪は、黙りこんだままだった。
 旧型のコンピュータのように、動かなかった。


Copyright © 2004 八海宵一 / 編集: 短編